松井の天井直撃ホームラン

グラン・トリノの松井の天井直撃ホームランのレビュー・感想・評価

グラン・トリノ(2008年製作の映画)
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☆☆☆☆

差別は新たな差別を生む。

暴力は更なる暴力の連鎖を生む。

いずれも、受けた者には一生心に残る傷が残る。

自分の価値観を相手に押し付けるだけでは、相手の理解は受けられない。

イーストウッドは決して声高には訴えたりしない。
あくまでも娯楽映画の範疇に於いて、自分の姿形を通してそれとなく忍ばせる。
まるで現在のアメリカ社会を憂いている様に。

イーストウッドは知っている。
今日、彼が映画スターとして輝いていた時期は西部劇のヒーローでだった事を。
そして、最早西部劇が成立し難い時代である事も…。

出来る事ならば西部劇を製作したい…個人的にはそう思える。いや、そう思いたい。ファン心理としては…。

以後、この感想は“それ”を想定して書いています。なので、とんでもない勘違いを侵している危険性がかなり高いと言えます。

作品中の後半の流れは完璧なる西部劇の流れと見て間違い無いと思える。
この作品の凄いところは、そんな雰囲気をイーストウッド自身が意識して作品の根底に観客の意識下に忍ばせただけでは無く、どこかアメリカとゆう国のこれまでの在り方を、主人公の生き方そのものとして反映させている様にも感じるところです。

しかも、それを娯楽映画として分かり易い様に誘導して行く。

「あ?これはあれか?、そうするとさっきのはあの作品かな?」と、どこか前に観た事のある作品を思い出させる時が時々ある。実際に過去に於いては全く同じ展開・カット割りを使った例もあるのですが、この作品を観た時には、完全なるオリジナル作品になっているのが何とも凄いところ。

自身が所有する愛車《グラン・トリノ》を、「美しい姿だ!」と眼を細め。他人に対しては自我を剥き出しにする“表”の顔。
マナーが悪く、人生の先輩に尊敬の念すら感じ無い若造には「舐めてんじゃねえぞ!」とばかりに。まるで『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』の主人公の様だ。

そして、若い神父に対して語る、闇を知る“裏”の顔としては、これまでにも『ファイヤー・フォックス』等で時折覗かせて来た戦場の苦しみとして。
また多くの西部劇や刑事物等の現代劇にて悪人から受けた暴力での責め苦として描いて来たと思う。

主人公の心の奥底に残っている“心の傷痕”

この作品では度々主人公と、その周辺の人達との触れ合いがユーモアに溢れていて、主人公の人間性に深みを出している。
勿論そうなのだが、個人的にはそれ以上に、本当の戦場すら知らない“この若造!”とばかりに、当初は莫迦にしていた若い神父との会話から、この主人公のこれまでの歩みが、こちらの想像を膨らませてくれていて、作品全体を豊潤なモノにしていると思う。

初めて2人が話し合う場面に於ける名前の呼び方から後半での繋がり。ビールを巡るやり取り。

主人公が本当に《懺悔》したかった事実。

それは簡単には喋れる代物では無かった筈だったのだ。
何度も何度も通い詰めて得られた信頼から、引き出した「命令されたからじゃ…」の一言。

遂に吐き出した主人公の心の叫び。

その一言を遂に吐き出した事で、それまで抱えていた重荷が外れ、過去のそれら一つ一つの積み重ねが、こちらの心の奥底を揺さぶって来る。

シンプルにして雄弁。

クリント・イーストウッドとゆう偉大なるエンターティナーの、これは人生賛歌にして世界に対するメッセージに他ならないと思える程です。

(2009年5月15日丸ノ内ピカデリー2)