シゲーニョ

アイアンマンのシゲーニョのレビュー・感想・評価

アイアンマン(2008年製作の映画)
3.5
「アイアンマン(08年)」を観て、まず心に留まったのは製作時最新の特殊効果(CGI)を用いた飛行シーン。
個人的には、リチャード・ドナー版「スーパーマン(78年)」をついに超えた(!!)納得のゆく「空飛ぶヒーロー」の姿だった。

しかし・・・それを凌ぐビジュアル・インパクトなのが、飛行時や敵とのバトルで度々挿入される、ロバート・ダウニー Jr.演じるトニー・スタークのマスク内の「どアップ顔」だ。

敵を軽〜く捻り倒した時のドヤ顔や、窮地に立たされた時の困り顔 etc がスクリーンいっぱいに超接写で映し出され、まるで実況中継のように、観ている側にもトニーの内省が手に取るように伝わってくる。
(あとにも先にも他のヒーロー物では観たことがない斬新な映像と思っていたが、近所の小学生のマブダチによると、最近のウルトラマンでも同じような描写があるとのこと・・・笑)

さて、本作の公開から遡ること1年ほど前、アイアンマン実写化のニュースを聞いて思ったのは、過去にドラッグ問題で何度も逮捕されていたダウニー Jr.が、スーパーヒーローを演じるという意外性だった。

コミックでのトニー・スタークは、科学者とヒーローの二足の草鞋というプレッシャーとストレスに負けて、アルコール依存症になる設定なので、馴染みのコミックファンにはイメージ的にマッチするもしれないが、当初スタジオ側はこぞって、ダウニー Jr.のダーティーなイメージに難色を示し、反対を表明。
しかし自身の意思で起用を決めていた監督ジョン・ファヴローは「彼しかトニーを演じることは出来ない」と意見を突っぱね、己の意地を押し通した・・・。

とてつもない代償を伴う大きな賭けだったと思うが、結果はご承知の通り。
ダウニー Jr.生来の気質「不安定さ&いかがわしさ」が、アイアンマンの「ちょっと屈折したヒーローぶり」と見事にマッチし、コミックファンのみならず辛口の批評家さえも称賛の声を上げたほど。

以降、マーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)の重鎮として、シリーズを牽引することとなる。
途中、自由気ままなヒーロー活動ぶりが災いして、「アベンジャーズ(12年)」ではキャプテン・アメリカに「君が本気で戦うのは自分のためだけだ。仲間のために鉄条網に身を投げ出す勇気があるのか?」と正論をぶっ込まれ、しょんぼりした姿を見せたこともあったが、「アベンジャーズ/エンドゲーム(19年)」では一世一代の大仕事を成し遂げ、MCUフェーズ3の幕引き役を見事に務めた。

なので「アイアンマン」第1作目公開から10年以上経った今に於いても、MCUファンはファヴローには足を向けて寝られないと思う・・・。
更に付け加えれば、虚実を超えてトニー・スタークと一体化し、観る者を圧倒させたダウニー Jr.の熱演ぶりは、もっと評価されて良いだろう。

「自由気ままなヒーロー」と上述したように、本作の魅力はまさにトニー・スタークの「自由さ」である。

拝金主義を推し進めた結果、自社製品が大量虐殺を招いた要因と知り、反省して軍需産業からは手を引くが、最新のテクノロジーを導入したスーツさえあれば「俺一人でヒーロー稼業が出来る!」と、持ち前の天才的頭脳と親から引き継いだ財産を活かしつつ、DIY精神でスーツを完成。最初の仕事でアフガンのテロリストを一掃した途端、「やっぱ、オレ凄くね!?」と自己満足の世界にひとり没入していく・・・・。

こうしたトニーの言動は、観る人によっては「自分勝手な成金野郎!」などと思えるかもしれない。
だが自分には、「己の責任を自覚して人のため世のために生きること」でしみったれた生活を余儀なくされるサム・ライミ版「スパイダーマン(02年)」よりも、少ながらず魅力的に見えたし、何が何でも「地に足の着いたリアリスティックなスタイル」を標榜するクリストファー・ノーラン版「バットマン(05年〜)」よりも当然のことながら、圧倒的な漫画的興奮を覚えたのは事実である。
(そもそも、バットマンの耳が長い理由付けとして、耳の中に高性能マイクが内蔵されている設定を考える方がどうかしている!!!だからノーランは好きになれない・・・・)

閑話休題・・・

囚われの身となった洞窟で、トニー自らハンマーを振るって、トンカン!トンカン!と「マーク1」のアーマーをこしらえる場面は、本作のベストシーンの一つだと勝手ながら思う。

ただし終盤の宿敵アイアンモンガーとの戦いは、唯一のマイナスポイントか・・・。

結局のところ、社内の権力争いにしか見えないし、アイアンモンガーは「マーク3」とは対照的な武骨なシルエットになっているものの、どう見たって、アイアンマンの「映し鏡」だ。

かつてスーパーマンが「冒険篇(81年)」で、ゾッド将軍(故郷クリプトン星の同胞)という究極の敵と戦ったことにより、3作目以降が迷走を余儀無くされる結果となったことでもわかるように、デビュー作にして「同等の力を持つ敵」を登場させてしまっては、次作以降、それを超える敵キャラをクリエイトするのは相当高いハードルになってしまう。
この心配は稀有に終わらず、アイアンマン単独シリーズで魅力的なヴィランが終ぞ登場しなかったのは惜しまれるところだ。


最後に・・・

ご承知の通り、「アイアンマン」はマーベル・スタジオの自社製作第1弾、壮大なMCUの発端となる作品だ。

それまでのマーベルは破産申請をするようなジリ貧ぶりで、自社キャラを切り売りして映画化し、糊口をしのぐ状態だった。
だが「ブレイド(98年)」で受け取った額はわずかに2万5000ドル。「X-MEN(00年)」に至っては世界中で大ヒットしたものの、権利を買い切りで20世紀フォックスに渡していたため利益配分はゼロ。
このままでは利益にしても映画のクオリティにしても十分なコントロールができないと判断したマーベルの若手プロデューサー達は、自前の制作会社「マーベル・スタジオ」を立ち上げる決心をする。

そして「アイアンマン」始動となるわけだが、成功した今だからこそ言えるが、よくもまぁ自社製作第1作目にも関わらず、エンドロール後にあんな仕掛けをしたと思う。
同じような仕掛けを施した「AVP2 エイリアンズVS.プレデター(07年)」や「ジャスティス・リーグ : 劇場公開版(17年)」のように、もしも鳴かず飛ばずの失敗作となっていたら、マーベル全社員は路頭に迷うことになっていただろうし、孫の代まで笑い者になっていただろう・・・。