ニューランド

エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事のニューランドのレビュー・感想・評価

4.9
スコセッシの最高傑作と呼んでるは、4、5本あり、その1本が本作である。出来がいい、とかの説明が全く効かない作である。1870年代のNY社交界の異物を受け付けず弾き出す守旧性と、その中で誠実と愛を求めたり、覚醒してく者。初めて観たのは一般公開の半年前の1993年の秋だが、まずノートに書き出した、連想した最も近いと、浮かんだのは実験映画の巨匠S·ブラッケージだった。その触感·肌触りが映画を突き抜けて、また拡がってる。頭·半ば·結末と展開·ストーリーで繋げてゆくことが出来ず、2時間半近くを、一瞬で·しかし永遠に焼き付く、美と精神の光芒のような作として、共通する。某TV局の試写会で観たが、その美·色彩·トーンの強烈強靭さ·敷き詰め·突き抜け予感に、只驚嘆した。只、主人公が50代になってのエピローグは本当に必要なのか、わからなかった。それで年末に友人に書いた年賀状では、’93の新作(日本公開ベースでなくあくまで自己鑑賞ベース)の上位は、❶『アブラハム渓谷』❷『エイジ·オブ·イノセンス』❸『許されざる者』となり、トップには躊躇った。しかも、『…偽りなき情事』と変な副題のついた、劇場(拡大、ジェネレーションの下がった)公開プリントは、すっかり色彩が損なわれ、別物になっていた。初めて観た時の(オリジナルネガからに近いプリントでの)衝撃は、レーザー等のディスクやデジタル放映で幾分かは伝えられた感。日本公開上映プリントは全滅だった。加えて古田由紀子の翻訳が、原作を読むといかにも大雑把で酷い。というわけで今更の本作を30余年ぶりに、急に観る気になったのは、(訳はともかく)最初の感動·手応えを呼び起こしたかったからだ。デジタルではジェネレーションは基本そんなに存在しない筈だ。感動はあまりに凄く、同じ日に観るつもりだった新作『キラーズ~』をオミットする事になった。少し前この映画の存在も知らなかった、鑑賞本数トップクラスの1人を誇る友人は、昨日ヴェーラについで、この劇場で長篇全三番組を、当たり前に消化しようとする、タフさぶりだった。
時にある· 周囲や奥側に白っぽい柔らかいくすみも一体性に寄与し、赤も滲み浮き上がる深紅から·茶系の落ち着き迄これも一体性保ち、コスチュームプレイなのに一般映画制作費枠で一般性持たすはきつく、俯瞰·ローの鋭さ、スローへ行き戻り、DISやアイリスの好み的使用、人物を包みあげる赤や黄の画面への侵食、縦に退いて全景から俯瞰移動へ·幾つかの部屋をうねり舐め歩く·ノロノロも人を次々追い変える移動やジャンル映画カッティングでの·顔の不意の現れの怖い効果、らで埋める、というかバーソナルに映画手法を身近にこなしつくし、また内面と世界の広さに直結させてる。マジカルを、超えたプライベート力。
前半などは何がどういう論理で会話がすすんでるのか、ハイクラスの会話や仕草として、センスが行き届いてないのでは、と思い戸惑うのだが、しかし何か違う次元の感動が伝わる。逆に後半は、細かく詰めに詰めた、細部の囲い込みに息苦しく、作劇の一見気づきにくい巧妙さへの感心だけに向かいそうなのに、不思議に清々しい呼吸が抜けてく。それは前半をリードする欧州伯爵婦人の地位から生地NYの地に自由を求め戻ってきたエレン、後半を固めて行く、主人公NYの名家アーチャー家の若き家長ニューランドの新妻、同格の名家ウェランド家出の、女性の解放など端から頭にないようなメイ、のキャラクター、その2人の絡み具合によるものか。対照的な、映画や物語の進め方への、はたらき方を持つ。
ニューランドとエレンの関係は、当時の社会認識や慣習から離れた、2人だけの不思議な会話をしており、一方がその時の話の内容とは別の感謝の念を込めて、相手の要求に応じたりしてても、一方はその背景や行方に気づいてない、只、相手の蒙るダメージを和らげたいという、おもんばかりのストレートな思いでしか、言葉を発していない。それを受けると、2人の関係は進展しないことはわかってももう一方はそれを受ける。一方がかけがえのない関係に気づき、結婚を迫っても、その前の自分の事だけを考えてくれた無私の心に応えた、瞬間の別の形で結ばった実現からの結果、がそれを妨げる。一方が結婚し、また彼女に向かってきても、自分の正直な気持ちを素直に持ち続けるしか、出来ない。現実には手も足もでず、縮こまり「耐える」だけだとしても構わない。
その2人のもとより進まない、只正直に思い合い、その形にならない瞬間の純粋さ、だけを味わうしかしない関係を、妻となるメイは、次第に予感から確信して掴んでくる。放って置くことも出来るくらいのものでしかないのに、位置関係としても、完全に排除しようとする。従姉でもあるエレンは忌憚無く打ち明けらる、元よりNY社会から排斥されようとされてたエレンの味方でもあったメイは、非難の対象としてではなく、この社会から放り出し、完全に地理的にも抹消すらしてく、排除の手を畳み掛けてく。それは、「もし好きな人がいるなら、私との婚約は解消して、その人を幸せにしてあげて」に偽り·取り繕いしかしなかった、未來の夫への当然の態度であり、復讐や嫌悪の形を帯びていたとしても、社会的現実的な幸せを具体的に築く事だ。自分の任を超えることなく、コミュニティ·地域のメンバーらに明言や示唆をせずとも、全てに蜘蛛の巣をはり、皆を自分の側の構成員とし、具体·力を未來に向けてはたらかせてゆくのだ。夫との間の会話は、メイと対照的に、一言一言が有機的に絡み、追い詰められてゆく。それへの呼応は、個々のキャラとの関係というより、彼らが起こす視線の置き方のニュアンスにいつ知れずの均等の浸透が表されてゆき、自然な恐ろしさを伝えくる。
「自分を自由を求める、そこに距離を持つとしながら、NY社交界の偽善(入る者への拒否もあからさまでない、仄めかしの連ね)を楽しんだ。慎重を要する。僅かの失言が、ここでは命取りになる」/「大胆な女性だ。スキャンダルの主なのに、ミンゴット家に護られてるにしても、この場に現れて来るとは」/「結婚を急ぐのは、他に好きなひとがいるからでは? そうなら、そのひとを不幸にせず、こちらの婚約を壊して」「勘の鋭いメイが、真実に気付く前にいつもの娘に戻りホッとした」/「結婚で女性観が逆戻りした。この妻に女性解放が意味があるのか。このように夫婦間の話は決められてゆくのか」「誰からも親しまれてる妻。しかしそれは、虚無を隠す仮面では? その中を覗いた事はない」/「メイは誰かは分からずも、もう他にいると気付いてる? 結婚を互いに変える? 貴方は本気ではない。自分が何をしたのか。貴方が私に離婚を思い止まらせた。一族の為の犠牲を強いた形に。私がそうしたのは、一族、メイと貴方の幸せの為。私は無知だった。貴方は1人、私の立場の改善の為に無心に立ち働いてくれた。私は自分の立場さえ解ってなかった。自由の為、その象徴のNYに戻ってきた。しかし、そこは因習に囚われた人々だった。その中で貴方の存在は、私が得た何よりも大事な宝。別れるは、愛するがゆえ。大事な愛する人たちを裏切る事は出来ない(教えてくれたは貴方)、そこに幸福はない」/「私は既に苦しんでる。欧州には帰らない。貴方が私の一部であるかぎり。耐えられる限り」/「窓を開けてると凍え死ぬ? こちらはこの何ヵ月間、もう死んでいる。そうか、若い妻だって(急に)死ぬ事はある」/「エレンはおばあ様の経済援助で、ここに残れるのに、私達を置いて欧州に帰ると告げてきたわ。昨日の手紙で。前に、確かに私はエレンに、辛く当たったと言った。でも本当は味方だとも言ったのだが。貴方の疲れて1人世界へ旅行? それは、しかし無理、私と一緒でなくては。今朝待望の子の妊娠が分かった。2人の母とエレンだけに伝えてある。そう、二週間前、2人で長く話した時に。ええ、あの時はそんな予感がしたの。当たったわ」/「今や一族は妻を中心として廻ってると気づいた。自分とエレンは、敵に囚われた捕囚のようなものだと。……一見無害な人々。自分やエレンに無関心を装い、が皆が、2人は愛人関係と、この数ヶ月みなしてきたのだ。そして妻もそれを知っている」/「時代は変わった? 今やあの放蕩家のボーフォートの事など覚えていない。そしてその後妻との娘と僕が結婚する。亡くなる少し前、お母さんは僕だけを呼んでお父さんは、頼んだら、家族の為に最愛のひとと別れてくれた。お父さんについてゆけば間違いはないと」「それは違う。しかし私を本当に哀れんでくれた者がいた。それが最も身近な妻。救われた気がした。……息子への婚約者からの課題のひとつ。しかし、逢いにゆかない。私は古い人間だ。それだけでいい」
2人の女は異質で、この世にあり得ない自由と光と愛を感じ、手離さず放ち続ける者と、現実に護り育てる要素の為に、実際の周囲を固め、遮るものを切り捨て、完全に排除するまで手を緩めない者。異質な分、勝敗は端から付いてる、いや、闘いさえ厳密には存在しない。一方を完全に遠ざけ、葬ることで、逆にそれを傷つけず、「幻影」に変わった様に見えようとも、手付けずに無意識に心中に保つを、方向付けたのだ。結婚は家が決めることはなく、自由を謳いながら、欧州の様に無視して放蕩に走るへは、「道徳」が存在し、形式でなく、心に植え付けられてるも、生地を離れた者に残すなどの、NYの気風。深くコミットしなければ、自由と道徳は、名目として芯になってたりもするが、実際は大事を嫌う「因襲」が染み渡ってる地。それに対し、理想へ向かえるか、現実に根付こうとするか。制作費の関係か、心の主観的な、狭い場の人々を捕え廻る移動に、視界を遮る者が入り、退くと妻アップがいつしか眼前にとか、「それは無理」と椅子から立ち上がる妻の部位と動きの分割3カットと、その後の夫婦の目線の高さの新たな仕切り直しと、笑みと怯えを瞬間固定する、切返しめも含め、仰ぎめと俯瞰のカットら、ハッと衝かれる真に怖いシーンが存在してくるが、それが繋いでくものは、そこに留まらない。「魂の内出血の映画」は正に言い得て妙。主人公の妄想多い主観世界、オペラの演目と劇場、社交界の衣装と装飾品、舞踏会、屹立した邸宅、晩餐会と料理品目、食事の会話と流行、花束の贈り、庭園と公園、スポーツと表彰、岬と灯台、欧州ハネムーン、密会、馬車から自動車、絵画ら、陽光と暖炉らの燃光。こんな内面と皮膚感覚の惑いから凄い映画は、他にはブラッケージの『キャッツ·クレイドル』·ルノワールの『浜辺の女』位しか思いつかないし、広い感触は同じ作家らの『幼年期の情景』『ラ·マルセイエーズ』らに繋がって行く。
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