垂直落下式サミング

新幹線大爆破の垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

新幹線大爆破(1975年製作の映画)
4.6
速度が時速100㎞を下回ると起動する爆弾を仕掛けられてしまった新幹線が日本列島を激走するサスペンスアクション。監督は『野生の証明』『北京原人 Who are you?』などを手掛けた日本大味大作の巨匠である佐藤純彌。アツい!
国内より海外での評価が高いことが有名で、この映画から日本的な情感を抜いて、物語のアクション性とタイムリミットサスペンスの部分を強調しながら徹底的にロジカルに描くとキアヌ・リーブスの『スピード』になるし、本作のスピード感溢れる編集はトニー・スコット『アンストッパブル』の演出プランに引き継がれており、力強いズーム、役者の眼力、複数カットを重ねたカーチェイスと、次々と目まぐるしく変化する高血圧さには目を見張るものがある。
犯人を追いかける警察の捜査進行度合いを丹波哲郎の状況説明台詞だけで見せてしまうなど、さすがの演技力。止まれない新幹線でパニックになる乗客たち。前例のない事件に戸惑う鉄道警察。やたら無能なのに犯人とのラッキーニアミスを繰り返す現場の刑事たち。次から次にシーンが連続する飽きることのない構成になっていて、序盤は事件解決に奔走する警察官たちが犯人たちに振り回され、不安からパニックに陥る乗客たちの様子が同時進行で描かれるが、徐々に高倉健等悪党たちの人となりが明かされ、奇妙なカットバックによって物語はだんだん爆弾を仕掛けた側の男たちのほうにフォーカスしていく。
社会に仇をなす悪役たちの人となりやそれぞれの関係性が示され、序盤では迷惑で卑劣な奴だとしか思わなかった彼等に、今度はぐっと感情移入していってしまう。テロを起こそうと考えるのはいつも社会に絶望した人間だ。こういうことをするのは生来の極悪人ではなく、以外と実直で真面目な人だったりする。世の中に絶望するということは、かつては自分の人生を疑いもなく信じることができていたということだ。
彼等が生きたのは70年代という日本の成長に陰りが見え始めた時代。日本列島改造論。沖縄返還。大阪万博。ビデオ戦争。石油危機。ニクソンショック。日中国交正常化。地価高騰。三島由紀夫割腹。70年安保。よど号ハイジャック事件。あさま山荘事件。…等々、明るいことも暗い事件も、もっと挙げることが出来るだろうが、この映画の悪役たちは、そんな激変する社会からもがくこともゆるされずに弾き出されてしまった者たちなのだ。職を奪われ、家族を奪われ、人として生きる尊厳を奪われた男たち。犯行の動機は身代金目当てだが、彼等はお先真っ暗な自らの現状を変えようと金を得ようとしているのではなく、実は社会の仕組みそのものに反逆することが目的化しているように思う。
つまりは彼等の敵は国家でも警察でもなく新幹線の乗客たちなのだ。真っ直ぐ敷かれたレールの上を他の何よりも速く時間どうりに運行する新幹線は未来的な乗り物で、日本の進歩と発展の象徴だ。それに乗ることができる人間は、夢であるとか目標であるとか、ポジティブな感情によって目的地までの道筋を切り開けるのだと、その未来に希望を持つことをゆるされた人間なのである。社会の恩恵を受けたものと受けられなかったものの対立。富めるものからすれば身勝手な理屈にも思えるだろうが、貧しきものにしてみれば同じ世界に生きていながら自分と正反対の幸せを謳歌している奴等こそ何よりも憎むべき敵であるべきなのだ。
私も虫のような生活をしていた時期には「全員負けの共倒れでいいからこの現状を変えてほしい」だとか「この場の全員に嫌われてもいいから調子にのってる奴等を少しでも不快な気分にさせてやりたい」と本気で思っていた。はっきりと敵を認識してしまった社会的弱者というのは往々にして視野が狭くなりがちで、あまりにも重く深く思い悩み、その低い地平からの眺めに慣れてしまうと、ろくでもないことを計画しそれを躊躇なく実行できてしまうDQN性まで染み付いてしまうということはよくわかる。
誰かが何か悲惨な事件を起こしたとしても、「アイツは悪い奴だ」で済ませるのではなくて、我々の社会はなぜこんな悪人を生んでしまったのだろうと考えるべきなのだろう。
高倉健は非情になりきれず、ラストで一度敵と定めた者たちを救うためにリスクを犯す。人質を殺さずにスマートに身代金を得るという自身の計画の甘さを痛感し、警察に追われ仲間たちを見殺しにした自分の不甲斐なさに耐えきれず、不幸にも人間性を取り戻してしまう。「自分に関係ない人間なんてどうなってもいい」と口では言えるが、仲間がいたり、 家族がいたりと、そうそう合理的に割りきれるものじゃない。誰だって普通に生きていれば、他者を全く慮らず自分の利ばかり考えることの方が難しいのだろう。ラストのストップモーションの悲哀がそれを物語っている。