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インドへの道のotomisanのレビュー・感想・評価

インドへの道(1984年製作の映画)
4.3
 けったいな話だ。インドの炎暑の中で言葉も通じない風習も違う大勢の人の中で一握りの英国人が現地人スタッフを従えて、現地政府を運営して特権的生活を送っている。そこへ司法官の婚約者としてアデルがやってきて暮らし始めるが、ある日インド人医師アジズを暴行事件で告発する。容疑者否認のまま、事件の経緯も不明瞭なまま審理入りするが、アデルは結局、告発を取り下げ事件は収束。結局容疑事実、告発取り下げの理由もあいまいなまま物語自体が立ち消えになる。事件ものでも恋愛ものでも収まらない印英接触奇譚である。
 けったいで気持ち悪い展開だが、案外英国人のインド感が良く表されてるのかもしれない。つまり、英国人が感じるインドの「怖さ」のような事である。もとより、旧支配層を経済的に圧倒して政権を引き取った英国人には土候藩王行政官レベルの面々しか分からない。残り99%以上は言葉も考える事も風俗も分からない。でも分からなくても離反が食い止まっていれば支配上問題ないのである。元からの非支配層99%の人たちにとっても、支配層が実質英国人に代わったとて暮らしに支障が出るわけでもない。むしろ経済がより良く回って好都合だったかもしれない。それでも英国人と常に接触するインド人スタッフや医師アジズ、ゴドボル先生のような人たちは、英国人の持つインド観の侮蔑的な底意を読み取らずにいない。彼らインド人知識者層が巧みに隠す怒りや反感、英国人が支配する現状への疑義が時折、言葉の端、しぐさ態度、蔭口、率直な問いかけとして滲み出る。映画には出てこないが軍人たちなら制圧を覚悟で反乱も起こす。
 ただし、アデルはそうした向き付けな白眼に直接曝された訳ではない。むしろ異様な風俗、路上に広場に座り込み動き回り、解らない言葉で叫ぶ群衆。好意とも敵意とも知れず言葉をかけ接近する異相の人々に、ほぼ危険は無いと理解していても、それこそ自転車で探検に出た時出くわした廃墟の奇妙な石像群をねぐらとするサル達の威嚇に覚えた恐怖にすれすれな感じで、インドの分からなさと言うより、肌に合わない感じを覚えているのだ。恐怖と背中合わせと言う。理性的には。
 しかし、理性の働きは理性が自由の利く範囲でしか適わない。孤立無援、未知な何かの差し迫りを感じる中では、これまで溜め込んできた恐怖心が理性を圧倒し去る。それが遊びに出た高原の洞窟での錯乱の件である。渡印以来聞こえてた未知な「こだま」か知らんが、理性を覆う怖さの源を担わす相手が医師アジズだけだったのは互いにとって不幸だった。
 裁判沙汰となる一件は物語を様変わりさせる。あいまいな容疑事実に性急な審理開始は適切を欠くが、問題が支配層女性対非支配層男性の暴行事件と認められれば論を待ち得ない。しかしここにおいて、ある種、アデルの人の良さが露わとでも無く現れる。裁判の証言台上開口一番告発を取り下げてしまう。結果、医師アジズの知友や弁護団が煽るアジズ擁護応援団の広がりと深まりの不穏を納め、事件すら無かった事が確認された喜びに変換され得た。しかし、ここに来て支配・被支配関係のアラがやっと現実味を持って関係者を襲う事になる。つまり訴訟費用負担と医師アジズの失職と同地の立ち退き問題である。アジズの支援を続けてきた筈のフィールディング先生があろう事か支配層を代表する形で費用負担をアデルに求めるなと言う。即ち、「紳士らしく振舞え」という。フィールディング先生ですらこの通りである。しかし、紳士である先生自身この他の事は言い出せないのだろう。実に理不尽には違いないが。また、この申し出をアジズが呑む事の驚きに心が重くなる。嫌味の一つも吐きたくなろう。それでもアデルへの思いが一抹あるのか、インドを背に荷なった身ながら英国人的心境の形成がある訳だろうか。こうした二つの世界の狭間に身を置く知識人の心情は測りがたい気がする。そして、昨日から明日へ、この地の世情もまた様変わりするかもしれない。英国のインド支配もあと二十数年である。
 測りがたいのはゴドボル先生も同様である。アジズにアデル接近の機会を与え、訴訟に無関心を装い、最後スリナガルでの職を斡旋し、フィールディング先生の来訪を促す黒子役だが、運命を口にしながら左様に適時に手を打つ人である。見えないところで何をしてるやら。紳士らしく泥を承知で被るフィールディング先生と好対照とも言えて、インド旧来の知識人の役どころに興味が尽きない。
 1920年代、のちの紛争が嘘のような美しい佇まいの山中の盆地の湖畔と高い並木の街道の地で三人が再開する。ブレッソンの写真を知ってるあなたなら、良いけど奇麗すぎていかんと言うだろう。いっそ映画自体白黒で撮ればよかったとも思うだろう。アデルが一人でいると聞き医師アジズは手紙を出すという。分からんものでアデルが分からなかった事をアジズが、アデルの同胞からの白眼視に耐える勇気と解釈して和解の言葉を発する。アデルが実際訴えを取り下げる事で被る困難事に気が回ったとは思えないが、「こだま」も鳴りやんだその時、インドにはもういられない事、それ以上に人生の大惨敗を喫する事は承知できたろう。しかし、どうあれ不正直で生き永らえる事の辛さこそ切実だったろう。ただ、その心中にアジズの存在がどれほどの重きを占めてたか知る由もないが、観衆は手紙を読み終えたアデルの挙措からますます読めない困惑にさらされ、あるいはアデルもまたこの手紙から同じ困惑を覚えているのでは? と感じるのかもしれない。
 このように物語は未知な事物への好奇心に始まって、光彩豊かでおおむね芳し気な交流の後、重大事件の末、失意と困惑のうちに果てる。それでもアジズは未だアデルに寄せる思いを残しているのか? アデルはアジズの何を見ていたのか? のちの物語を読み手に預けて終わるが、経済を目的にインドの外面に触れただけの英国でもフィールディング先生のように何故か深入りしてゆく人もいるし、腹背ながらインド自体も第三世界の雄にしてまた英連邦にも繋がっていたりする。繋がりついでで無いけれど、アデルとアジズはどうなるのか困惑を余所に気が無いような何か気になるアデルの最後だった。
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