ニューランド

新しい背広のニューランドのレビュー・感想・評価

新しい背広(1957年製作の映画)
4.0
 台北でで過ごすも、父母マニラ転勤で、5歳の弟と基隆から日本に引き揚げて13年、両親は戦禍で餓死、自分は大学も断念し、弟を年長の身内として育て(あげ?)、井の頭線沿いに下宿し(押し付けられた鶏を飼う、母と兄妹家庭か家主で、家は繋がってる)、建築事務所に勤め続けて30歳を迎えた主人公。後輩は結婚しても、女は「結婚したら退職」(の時代)なので今養ってる家族3人を引き取る相手もなかなかおらず·未だ独身ハイミス同僚と同じ独身身分。学内1、2を争う優秀さで東大進学の機運が教師も応援·高まる弟に、バイトしても高校以上の学費は、現実に無理と答える。相思相愛の8歳年下の同僚OLに、口に出せなかったプロポーズを、やっとの事情もある。父が戦死して、資産家の母の家で母1人娘1人で暮らす恋人は、執着つよい母に、広い家で結婚後も同居を覚悟してて、その為に今·間貸ししてる、戦禍で家を失った仕立て屋夫婦に出て行って貰う事になってて、相手も困ってる。しかし、少しでも現金の欲しい先方が、手に入れた安い生地での安い背広作り希望を、肘が綻びてる背広の恋人の主人公に応ずを確約もさせてく心遣いも。しかし、弟の願いを叶えてやろうと決心を変え、その入学時一括費用の為に、それを断り、結婚も4年待ってくれるかと頼んでくる相手。覚悟決め受けるも、「私、その時26よ、いいの?」「僕だって34だ」。しかし、その間、弟は相談した伯父に、「これまで必ず(実情大変でも)都度の進学を歓んでた兄さんだ。今度は本当に無理なんだろう。兄さんを解放してやれ」と言われ、住込みでその工場で働き、学ぶは学校に限らない·夜間大学を併行すると告げる。兄は、浮いた金で、あの仕立屋で社会人としての背広を作る事を、弟に請け負う(自分の背広は、恋人が亡父の生地のいい背広~170cm·五尺六寸もピッタリ~を卸してくれてた)。
 一時間弱の作品に、(雰囲気や妖しさ·キレに優れた併映作と違い)映画らしいテクニックやケレン、人物(間)の葛藤も激しいドラマも何もない。後のテレビのホームドラマ(渥美清や木下~太一もののような、豊かではない、が庶民にも開き直らない人々)を、テレビでは無理のロケ(ハン)·セットで、線路脇の坂道、繋がってるを大きな暖簾で仕切って行き来普通の大家と間借りに差がない家、玄関前の石段から坂の追いかけ、事務所の適度の机と作業服·制服の男女ら、池ノ上他の駅周りと雨の祟られ、商店街舗道を歩くミドルサイズの横フォローや廻り具合·時に無理なく寄る、らを正確に作り上げ、関係付てくに、終始してく。アップも、退きも、切り返しも、どんでんも、それぞれのキャラが一方で相手の為に踏み出してる姿勢を、明らかめにするだけだ。
 (全盛期)映画ならではの、存在の安定と包み込み、社会の有り様が視覚的に組立てられ繋げられ·向かうも幾様に自然に見えてくる、感触は得難いもので、本作と併映の『鬼火』を、昭和30年代初めの、たまたま今·批評家人気を証明した話題の『ジャンヌ·ディールマン』(この映画の人気ピークは40年前後以前と体感的に思ってたが·何故今頃沸騰?)の(時代にズレもあれど)日本版かなと思ったけれど、何か薄暗いそれより、明るくボヤかしのない、こっちの方をそう呼びたい。家族を抱えて不自由を、その因の戦争時からの家族の推移の記憶が縦横に糸を張り巡らせて、支えてくれ、新しい時代や人との関係性の進展にも向かわせてくれる。(片)親や、生活拠点の喪失と間借り生活、結婚や進学·綻び背広の発注のタイミング、ペットと食料の境なし、あくまで自分の欲より関わり·愛おしい人の優先、それらが普通に共通し、周り絡まって作ってくれる、形は朧げも感触は確かな未来。
 こんなのを、今の感覚で的確にリメイク、演出する場があったら最高だなと思った。汎ゆる映画の世界と無縁の素人にもそんなことをおもわせる。時代を遡り、戦前、そういった健気さが内から自ら溶けてゆく、原点の儚さと向い残る何かを描く『白夜を旅する人々』とセットめに。生れて間もない頃の話で、記憶などないが、それにど田舎の人間だが、この映画の真実は分かり過ぎるくらい分かる。
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