青乃雲

時計じかけのオレンジの青乃雲のレビュー・感想・評価

時計じかけのオレンジ(1971年製作の映画)
4.0
良い映画、良い小説、良い音楽、良い美術、良い舞台。それが何であれ「良い○○」と僕たちが口にするときの「良い」の意味は、何度でも推し量ってみる価値があるかもしれない。

あらゆる表現は、本来的には何かのためにはきっと存在しない。それをせずにはいられない衝動に動かされて、誰かが何かをはじめる。やがてその行為は伝播(でんぱ)し、共有されることで文化となり、何世代かにわたって継承され(ときには破壊されながら)洗練されていく。

そして経済活動が高度になるほどに、ビジネス的な色彩が強くなっていき、数多くの「売れるため」の作品が作られることになった。発生論的に捉えれば、そんなふうにも言えるかもしれない(そのような原始的状況は、どんな時代にもなかっただろうことも含め)。

売り手にしてみれば、売れるものが良い作品となるだろうし、作り手にしてみれば、様々な意味での品質がそうかもしれない。また買い手にしてみれば、満足度によるのだろうと思う。

そのため、たとえば「映画はエンターテイメントだから」と言ってみたときのエンターテイメント性とは、様々な「良い」のうちのごく一部を言い表しているに過ぎない。またそうした切り口で映画を捉えた場合、娯楽(エンターテイメント)/芸術(アート)という、二元論的な構図がおそらくは存在している。

本来的には、様々な側面をもつ映画現象の結果として、自分を含めた多くの人をスムーズに楽しませるものが娯楽(エンターテイメント)であり、自分を含めたほとんどの人がスムーズには楽しめないものを芸術(アート)としているようにも感じられる。

けれど、それなりの数の映画を観ていくうちに、やがて僕たちはあることに気づくことになる。

娯楽(エンターテイメント)の目指すものは、最終的には芸術的な感動であり、芸術(アート)の目指すものは、その反対に娯楽的な感動かもしれないことに。そのように映画を二元論的に分けてみても、最終的にこの2つの要素は、円環するようにつながっていくのではないか。



スタンリー・キューブリックの作品はいつでも、世界の裂け目を裂け目のままに提示しようとする。そのためヒューマニズム的に回収することや、理性的に理解し消費することも含めて、それらはことごとく無効のように思えてならない。

この『時計じかけのオレンジ』に描かれる、2種類の暴力についてもそうなっている。1つは、主人公のアレックスがそのまま体現しているものであり、もう1つは、そのアレックスを更生(社会的に適合)させようとする管理的な暴力ということになる。

したがって、アレックスのナチュラルな暴力性に拒絶反応を起こし、そのアレックスを更生させようとする管理的な暴力性にも嫌悪感をもち、もう二度と観ないとすることもまた、この作品を正統に受けとった態度のうちの1つのように僕には思える。

しかしそのように封印して、他のいわゆるエンターテイメント作品を観ているうちに、アレックスの体現した暴力性が、作品の向こう側にオーバーラップしていることに気づくことになる。僕たちを楽しませるためのストーリーテリングや、映像的なリズムの向こう側に、ナッドサット語を駆使しながら、ナイフの切っ先を歩くような彼の姿が見えてくる。社会的な秩序を維持するために彼を捕らえ、更生させようとする管理側の暴力も不吉に木霊(こだま)しながら。

それらは、消費されることを拒むようにこの作品で提示されたからこそ、純粋なイデア(idea)のように、どのような作品にも投影されることになる。

もしも僕たちが、この映画に嫌悪感しか抱けないとするなら、それは僕たちの生きる世界の裂け目が、やはり嫌悪に満ちたものだからかもしれない。しかし同時に、嫌悪感の向こう側にある、ナイーブな狂気に満ちた美しさについても、どこかで感じ取っているのではないか。そうした逆説によって、いずれのキューブリック作品も出来ているように僕には思える。

アレックスが劇中で叫ぶ「ルートヴィッヒは悪くない、彼は音楽を作っただけだ!」という発言は、キューブリック自身のものでもある。

スタンリー・キューブリックという監督が存在し、このような作品を生み出したという事実によって、映画全体が信用に足るものになったところが僕にはある。アイロニーの本来的な姿を示すものとして、映画を含めたあらゆる表現を地上にとどめる錨(いかり)として。

またそうした意味では、生半可にアイロニカルな表現をキューブリックはすべて封じたとも言える気がする。
青乃雲

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