ニューランド

日本春歌考のニューランドのレビュー・感想・評価

日本春歌考(1967年製作の映画)
4.6
 今回のプリントは劣化かなりも、いのちの色彩はまずまずで、本領は空想出来てく。勿論、大島の最高傑作といってもいい、途轍も無い作品で、現代若者風俗という特に枠の無い所から始まり、際限のない映画観念宇宙が、無限に自在に走り出そうと、実際の出走が不確かな分、可能性が無限に駆け出してゆく。やるせなく、痛々しく、狂しく、闇雲に。映画的、デクパージュ·カドラージュ的にも、考え得る最高の美しさが実現されてる。
 旧·紀元節の日の雪の日、前橋から東京の大学受検に上京した男女七人の高校生。終了後、気になる美女受検生、偶然出くわした高校教師とその愛人に関わってブラブラするうちに、教師の奢りで一泊に。春歌を場違いに居酒屋で歌い尽くすほどに酔っ払った教師がガス中毒し、翌日、その葬儀、美女受験生のベトナム反戦フォーク集会に分け入る事に。男子学生の1人は死んだ教師を救えたのに見殺しにした事を悔いよりも·自分の中で不敵に弄び、彼も含めた4人のあの美女高生を空想で自在に犯す事の成就と形を問い続ける事の意味、仲間の1人の女高生や教師の愛人を通しての日本人のふるさと朝鮮の存在、が肥大化へも連動してゆき、不思議に納得の「真実、ね」で締めくくられる。有り得ない、限定キャラの発想や認識の歴史通底化や拡げ投げ掛けが気にならなくなり、それでも残る映画一般共通認識の敢えての名残りも旧弊を越えた日本映画の急所顕しに見えてく。来たる世界的学生運動の予見映画としても、ゴダールの毛沢東語録弄び映画より、格段に優れ、先を行ってる。
 (国旗日の丸の)赤と黒の共存、道路や建築物への白い雪の降り詰めと敷き詰め、水面と地上の対称同存、ハイキー·又は朧ろルックと延々横や追跡移動の超長回しや重ね、血や液体のドロッとした床·水上構わず増殖、斜め縦仰俯瞰の講堂や墓板らを越えての寺の日本的間取り装置·アルバイト廊下やドア隣接の安くもコンクリ宿らの·床面と仕切と高低やその角度の共通便と構築感、美的で正確的確·雄大でシャープなデクパージュとシンボル吸い取り、現代的音楽の切迫した弾力と·汎ゆる歌曲の選択と上位変更常に、バックの抽象度合いと絡む状況を超えた不敵な表情CUの威容とナチュラル嵌り込み。具体と抽象、空想と幻想と様式·現実の往き来と総体一体のはりつめ。
 空想の力や可能性と限界の自由な行き来·侵食、設定世代を越えて日韓春歌もどき被り横行·発展新世界へ、そこの鬱屈民衆と女のはけ口と被害者への戻り悲哀、前橋~東京1967受験生を超えて紀元節復活反対·新宿とアラビアのロレンスのトルコ攻めの目指す英雄の意味、棺の前での空想超えた果たす事の一時達成解放感、空想を突き詰め現実に拮抗の鍛え·相互確認高め合いの徹底、紀元2625年の歴史の真実·出雲繁栄への新羅·任那の朝鮮の後大和朝廷と騎馬民族の武力一気支配「日本のふるさとは朝鮮」、ベトナム戦争反対フォーク集会の米民主気取り派の対アジア劣等民族への趣味的レイプ、痛みの慣れ消える前の自己刻印のスタート自覚。殺人への関与の感覚リアリティと罪意識を超える無意識模索がベースにあるが。
 大島は、ジャーナリスティックな感覚·その取出し拡大に優れて生涯それを旗印にしていたが、創造社をベースにしていた頃には、本人も意識しない生来からの根っこも引きずってるような、妙な太さ·バンカラさがあったと思う。創造社を超えた美術·音楽·編集·録音もその一翼を担ってるが、やはり一番大島映画の本人に匹敵する色合いの強さを持っていたのは、やはり田村孟だったろうか。都会的な本作であっても、佐々木守らに振り切らない、本人にもどうしようもない、足元が現実以上にあると思う。
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