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やぶにらみニッポンのニューランドのレビュー・感想・評価

やぶにらみニッポン(1963年製作の映画)
2.9
’90年代前半、 鈴木英夫が突如鬼才・名匠化したのは、(誰もが周知の事だが)故・田中真澄さんを中心とした力によってだった。(バイトの知人も呆れてた玉石何でも上映)スタジオams皆勤グループの、己の知力・眼識だけを頼りにした発掘作業。最大の、小津実像理解・研究者にして昭和世相の把握者は、在野の柔軟かつ反骨精神保ち、誰にも柔らかく見えて安易になびき近づく相手には気づかせずあしらいもしておられたを目撃もした。映画の実作の評価も、当時はまだ、時流に乗ってなかった清水や田坂(勿論4~50年前でも評価する人にとっては小津と同格だった)、洋画だと今は死語の第三世界とかに向いてたようだ。しかし、快楽より知性には傾いてて、我々後発テレビ世代からは、鈴木英夫に関しても(後追いでオールナイトを観て、後は殆ど見てない)、着想、音、雰囲気といった切り口には高い教養は感じられても、作品全体としては、商品としての押しに不足を感じた(例外はあって、『その場所~』等は、古びなさ・完璧さ・当時の佇まいらを完全に充たした真の傑作だ)。
本作も、時代のひとつ先を浮わつかず多様というか特異にゆくクールな人物ら、それらが照らし出す・またははまってく、日本の歪んだ近代化の猛進喧騒、西洋コンプレックスの男女・地域格差、日本の経済的基盤の脆弱さ、古来の日本精神のありか、改めてプラトニックな精神の結び付きの意味・価値、災害の多さとそのもたらすもの、被爆や戦災孤児さえ易々乗り越えてく直截な生命力、新しい掛け合わせ・進みかたは結局遠ざけられる、等が、きわめて基本スマート・近代的でバランス取れて正確も、反応の違和の気づかれない入れが(心中)一時停止させるスタイル(アップ入れの方向だけが、タッチの効果・バランスの万全を批評し揺さぶる無意識を持つ見事さ)、著名人使っても(今や木の実やジャニーズら)外形・データ示しにだけ、といった日本的じめじめさを省き、また西洋的ダイナミズムも排除した外形で描かれてく。この手の映画は高度成長、世界の表舞台に日本が出てくようになると増えてくが、本作には活力や自嘲にはまらない品位あるスタンスがある。
併映の千葉泰樹から引き継いだ『目白三平』シリーズ、万年ヒラの国鉄職員の一家・職場・周囲や縁者にあたる人ら、を描き、感傷家、現実派、理論派、老若らが、ちぐはぐ噛み合わず、不満を抱えた侭、半衝突・暗礁乗り上げ気味も起こりかけ、時に新風が駆け抜けときめき、立場を越えて人を和ます無償の行為の現れもするを、垣間見せてく日常とコミュニティを、こんどは実に人の身の丈に併せすぎたような端正・質朴なトーン・タッチで自然染み渡るように描いてく、変わらぬ何かを保ってる現代日本の姿。しかし、全ては予感だけで現実は繰り返しや回帰や時を刻むだけ、しかしその安心を描いてく。
金を払った分、欲張り、見た証しを求めてるのかも知れぬが、日常的行為としての観賞なら、自分の姿をスマートに見せてくれ、最良の趣味のいい同伴者なのかも知れぬ。しかし、私は田舎者なので、映画に品のいいセンスを求めてるわけでもなく、なにか食い足らない~というか私は映画に映画として表出する以前の表現を超えたものの掴まえを行ってる気がする、作者の無意識レベルのもの(私がどんなに田舎者でも、マキノ・ベッケルのクラスに出会うと感じ入ってしまう日常のニュアンスの引き寄せができる)。しかし、(殆どの映画ファンが文句なく好感抱いてた)この作家や千葉泰樹は昔から苦手な私も、中堅どころが次々スポットライトが当てられてゆくことは本当に好ましいと思う。量産の撮影所時代の日本映画を実質支えたは、年一本前後、バジェットもプロダクションも長大な巨匠によってではないからである。その手つき、仕上げをじっくり堪能したくも、まだ立派なまな板にのっかってない千葉や鈴木以上の名匠はまだまだいっぱいいる。
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