まぬままおま

10ミニッツ・オールダー イデアの森のまぬままおまのレビュー・感想・評価

5.0
こちらは『イデアの森』または『CELLO』と呼ばれる方。『TRUMPET』よりアート性や実験精神が高い印象。それもゴダールの作品が全く意味が分からなくて最高だからなのも大きいと思う。

以下、各作品ごとにレビューする。

ベルナルド・ベルトリッチ「水の寓話」

冒頭作品はちゃんと劇をやっている物語が選ばれているんですかね。カウリスマキ作品同様、本作も丁寧な作劇がされている。ただ本作の時間はファンタジーの時間だ。
不法移民と思われる男が仲間に水をあげるために街に行こうとすると、バイクが故障してしまった女に出会う。その修理をきっかけに二人は惹かれ、結婚し、子どもも産まれる。幸福の絶頂のなか、ドライブに出かけるもまさかの車の水没事故。男があぜんとしてその様子をみているが、何を思ったか仲間のいたところに行ってみる。すると仲間は座ったまま水を待っていたのだった。あれから数年がたっているはずなのに。
なんとも不思議な物語だし、仲間がまだいたときは驚いた。このようにファンタジーの時間がフィクションとして現れるのが映画だと思うし素晴らしい。

マイク・フィギス「時代×4」

スプリットスクリーン!しかも4画面。マイク・フィギスはスプリットスクリーンをよく使う監督なんですね。半端ないです。
時間軸がそれぞれ異なる4画面。しかし鮮やかなカメラワークで緩やかに画面たちは接続し、それとともに時間も同期する。それにより時間は過去ー現在ー未来の単線的な時間から逸脱し、遡行し瞬時に駆け巡る。こんなことができるんだと感心です。

イギー・メンツェル「老優の一瞬」

イギー・メンツェルが長年の交友関係にある老優ルドルフ・フルシンスキーの人生を10分で語ってみせた作品。
ルドルフ・フルシンスキーの若かりし頃の作品が引用として登場し、今の姿になるとは想像がつかない。しかしだんだんと彼の老いた顔に経験が刻まれていることが分かってくる。映画は劇であってもひとりの俳優の人生をドキュメントする側面があることが改めてよく分かる。

イシュトヴァン・サボー「10分後」

実質1カットの本作。1カットでも固定カメラで何気ない会話劇をやっているわけじゃない。まさかの殺人事件。ドラマティックな物語と展開を何気なくやってしまう。しかもカメラや人物は縦横無尽に動き回るし、夫が帰ってくることや医者、警察が登場するタイミングが絶妙だし、上手すぎる。あと照明がほとんど自然光であることも驚き、室内照明をあちこちに置いて、カメラが動いても光が届くようにしていると思ったら違った。けれどあの光量の「見づらさ」が殺人に至る翳りの意味を与えていると思う。

クレール・ドゥニ「ジャン=リュック・ナンシーとの対話」

現代のフランス哲学を代表するジャン=リュック・ナンシーの語りをドキュメントした作品。「外国人は侵入者である」というテーゼから自己の独自性と他者の受け入れを考えている。

とても示唆的なことが語られる。以下に列挙してみる。

「あらゆる文明が均一化という文明に取って代わられ世界中が均一化する傾向にある(…)グローバル化には2つの側面がある。1つは悲惨な均一化。1つは幸福な異質性でその2つは相反するものだ」「同質化した世界の一員にはなりたいが同化はしたくない」「自己に対する他者の侵入」「独自性というのは侵入の要素を受け入れてこそ発見されるものだ」「受容と拒絶」「狂人を美化したくない」

自己の独自性は、自己に閉じていたら見出されないが、他者の侵入が必要である。しかしそれは異邦性の受け入れでもあるから拒絶にも驚きにもなってしまう。だから自己と他者の関係は非常に繊細で難しくて楽しい。

「外国人は侵入者である」と主張する彼は排外主義的な考えにも思える。しかしインタビュー中に突然外国人が侵入してきたとき、彼は拒絶することなくその人と会話をしているのだから、あの態度こそ健全な他者の侵入の受け入れに思える。そしてそんな出来事を劇として導入し、彼の語りの実践可能さを明らかにしてしまう映画としての作為も大変素晴らしいと思う。そして「どれだけ既成概念を超えることができるかが問題だ」。それだけが映画/哲学で賭けられていることだ。

フォルカー・シュレンドルフ「啓示されし者」

アウグスティヌスの哲学を導入しながら「時」に語った作品。いわく「時」は過去・現在・未来の3つと思われるが、過去の現在=記憶・現在・未来の現在=期待の3つとも考えられるとのこと。確かに過ぎ去った過去は記憶でしか知覚しえないし、期待でないと予見はできない。「時」は分かりそうで分からない不思議な概念だ。
本作も一人称の語りが蚊であることから、カメラは空中を駆け巡るように動き回る。多分、クレーンを使っているのだろう。劇も期待に反するドラマティックな展開をするので、それを10分でやってしまうのはやっぱり凄い。

マイケル・ラドフォード「星に魅せられて」

こちらはSFの時間。宇宙探索で数光年ぶりに地球に戻ってきた彼。彼の身体は10分しか老化していなかったが、息子は80歳を過ぎたおじいさんになっていた。もし自分がこの状況になったら、グロテクスすぎると思う。しかも80歳の息子に「パパ」なんて呼ばれるのは、感動でもなんでもなくただのホラーだ。

ジャン=リュック・ゴダール「時間の闇の中で」

断片的なイメージ群=映画で種々の最後の瞬間を語ってみせた本作。「若さの最後の瞬間」「勇気の最後の瞬間」「思考の最後の瞬間」「記憶の最後の瞬間」「愛の最後の瞬間」「静寂の最後の瞬間」「歴史の最後の瞬間」「恐怖の最後の瞬間」「永遠の最後の瞬間」そして「映画の最後の瞬間」。
デジタルの粗さと色味で人物は単なるイメージでしかないし、スクリーンは単なる幕でしかないことを暴いているようだ。さらにシャッタースピードを遅くし、スローで再生することで映画も静止したイメージの連なりでしかなく、流れる時間も現実世界の時間と同期し得ないことも語っているよう。しかし「記憶の最後の瞬間」で登場する痩せ細った女性の死体には真正さが現れている。「たかがイメージ、されどイメージ」。イメージも時もさらに分からなくなってしまった。

「最後の映像」はもはや映画ではない。けれどそれでも映画として現前するならば思考をしなければならない。別の仕方の映画を。全く意味が分からないが、ゴダール亡き後を生きるために、「己の人生を生きる」ためにやらねばならない。

以上、レビューしてきた。こちらの巻も総じて素晴らしく何度もみたい作品ばかりだ。ただ映画や時についてさらに分からなくなってしまった。どうしたものか。でもそれは別の可能性に開かれたということで受け入れたいと思う。