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落葉のnetfilmsのレビュー・感想・評価

落葉(1966年製作の映画)
4.3
 ジョージアの伝統的な名産品はワインで冒頭、葡萄から赤ワインを作る製法が映し出される。自然豊かな山々に囲まれた平地で、太陽をいっぱいに浴びた葡萄群は農夫たちによって刈り取られ、木製の入れ物に入れられ、工場へと運ばれる。工場と言っても極めて牧歌的で、天井の高い倉庫のような雑然とした場所まで運ばれ、細長い桶に移し、農夫が2人がかりで足で踏みつぶすと、ベルト・コンベアー式に果実が桶に溜って行く。その涙ぐましい努力の過程は全て農夫たちの手作業に負うアナログ作業であり、農業革命から産業革命までの間にこのような工程を経て、テーブルの上に置かれ、乾杯される赤ワインは作られて行く。この冒頭の一連のシークエンスは今作を語る前段階のいわばガイドのようなものだ。そして巧妙にイオセリアーニの傑作ドキュメンタリー『唯一、ゲオルギア』でも使われているマテリアルである。劇映画としてはその後、ニコ(ラマーズ・ギオルゴビアーニ)とオタル(ゴギ・ハラバゼ)の食卓の場面で始まるのだが、2人の対照的な表情が印象的だ。オタルのこの世の終わりのような表情と両親との不和、食欲不振とが3点セットで描かれたあと、ニコの家の賑やかな雰囲気が映し出される。男手となる彼1人が長兄で、下はみな娘たち。テーブルを囲む家族たちは仲睦まじく食事を始めるのだ。

 労働者たちをひたすら見下し、服装の不備を恥だと罵るオタルの姿と、言われるがままのニコの姿はどこかウサギとカメ的な教訓物語に見える。家庭に不和を抱え、いつもニコをくさすことで現代的に言えば何とかマウントを取るオタルに労働者たちは冷たい眼差しを浮かべ、対するニコの仕事に手を抜かない姿は労働者たちの好意を勝ち取る。同じ区画に住む年上の美しいマリナ(マリナ・カルチィヴァゼ)に秘かに恋する2人の恋のさや当てになるかと思わせておいて、映画はクライマックスまで物語の中心に「ワインの熟成工程」を置き、冒頭のワイン造りの例証を引き離すことはない。序盤から何度も挿入される生産量の達成の報せは当時、ソビエト連邦が掲げた経済の資源配分を市場の価格調整メカニズムに任せるのではなく、国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される共産主義体制である「計画経済」としてジョージアの人々に強引に押し進めて行こうとした属国のいわゆる近代化政策の一環だったのだ。当然この赤ワイン工場でもソビエト連邦のお達し通り、味はイマイチでもとりあえず目標の達成に取り組まんと涙ぐましい努力をするのだが、末端にいるはずの希望を抱えたニコが質より量のワイン醸造システムに異議を唱えるのだ。だが会社のシステムに亀裂を生まんとしたニコの叫びはシステムによって巧妙に搦め取られる。

 常日頃狭い部屋の中でビリヤードに興じるばかりのどこか楽天的な上役連中も凄いが、野心と狡猾さだけでのし上がろうとするオタル(ひょっとして自身への自虐的な意味合い込みでの同じ名前だろうか?)や専ら今の手堅いポジションを守ることにしか関心のないマリナ。それに加えコネクションを駆使してワインでタダ酒する友人や、近代的な工場を見学に来る無邪気な人々を何度も差し込もうとする。心底質の悪い49番のワインはイオセリアーニにとってソビエト連邦の属国としての気まずさのメタファーとも言えよう。工場で働くジョージアの職人や労働者たちはその赤ワインの未熟な匂いに気付いているのだが、誰一人として糾弾も廃棄もしない。薄暗い瓶の中に詰め、ラベルを張り付けてしまえばもはや高級レストランに高額で売買される高級酒となるのだが、それは伝統を欺くような欺瞞ではないか?ニコは物語の中で何をやっても上手く行かない。服装の不備を詰られ、ようやくマリナとのカフェ・デートに在りつけたとて、ペアのコーヒー・カップを運んだ彼の前に彼女はもういない。マリナとただ話したいだけなのに、モテモテの彼女の家への道は塞がれ、やっと中に入れたとしても年下の彼はまともに相手にもされない。イオセリアーニの映画にはしばしばこういう何をしても上手く行かないとぼけた純粋無垢な楽天家が登場するが、ラストには彼の信念が涓滴岩を穿つ。ところが当時のソビエト連邦の検閲担当者は、「計画経済」に批判的だとして今作に上映中止の判断を下す。それから2年後、カンヌ国際映画祭で初上映された今作は、西側諸国に東欧映画の驚くべきクオリティを知らしめた。イオセリアーニの長編処女作となる紛れもない傑作である。
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