ダルマパワー

サイコのダルマパワーのネタバレレビュー・内容・結末

サイコ(1960年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

冒頭から時代に珍しいモーショングラフィックスが使われ、単純な日常を切り取るようなのんびりした映画ではなく、少し先進的であり、また無機質な冷たさも感じて映画に臨んだ。

内容はサイコスリラー。休む間もなく展開が目まぐるしく動いた。ロマンスな要素は排除して、サイコ的要素と残忍な殺人にフォーカスしている部分が、シンプルで分かりやすかった。

ただその分、登場人物への共感性は沸かず、純粋にサイコ的ストーリーに興じるのみの映画でもあった。

個人的に気になったのは、最後の母親の人格の言葉。

これが非常に強く印象を変え、解決したと思っていた真相を、再び暗闇の中に消してしまった。

殺人を犯した母を庇う息子の話なのか、殺人をおかした息子を庇う母の話なのか。

普通に見ていけば、殺人をおかしたのは母親の人格で、息子がそれを隠蔽した、と思えるのだが。

ラストシーンで、息子が母親に罪を着せようとしている、と心のなかで語った母親の人格の言葉が、どうにも腑に落ちない。


監督が映画内に置いた、数々の伏線が、どれを信じていいのか、どれが監督の仕掛けた推理への罠なのかわからなくなった。疑心暗鬼になり、沼にはまってしまったようだ。


本作では、序盤から心の声を観ている人に聞かせる演出があった。

それが、心の声(妄想)なのか、あるいは事実なのか、その頃から判断がつかなくなっていた。

そこからすでに、本作のテーマ性が刷り込まれ、内面の声と実際の声の境界線を曖昧にする目的が込められていたように思える。

そうした、真実のような内面の声があったかと思えば、一方でモーテルに泊まった被害者の女が母親の声を聞くというカットもあった。それは、外面に出た偽りの声とも言える。

こうした監督の仕掛けた罠によって、結果、最後まで本当に母親が生きていると錯覚した。

そして、クライマックスで、それがまた裏切られ、ミイラ化した母親と対面し、と思えば今度は後ろから母親のような姿のものが襲いかかり、じゃこれはいったい誰なんだと、思ったところ、ようやく光に照らされて見えた正体は、息子だった。

二重に三重に組まれた展開と、最後のクライマックスの勢いがすごく、この時点で映画としては満足していた。

が、

最後の最後でまた沼に落とされる。

ラストシーンは真相を解決したかのように声高らかに語る医者から始まる。

過去に父親をなくし、ショックから心を病み、母親に依存した息子。しかし後に母親に愛人ができ、彼が母親を取ってしまうと恐れた息子。結果、母親と愛人両方を殺害してしまう。以降、その罪悪感から、自らの人格の半分を母親として置くことで、母親の存在を自らの中で守り続けた。

だが、母親の人格に自我が芽生えたのか、今度は息子への独占を望み、結果息子に近寄る若い女を殺害してしまう、そんな構図が出来上がってしまった。

観ていた私も、その語りを聞いて、なるほどと、冷静に聞いていた。

(被害者の姉や恋人の気持ちも考えず、どや顔で話す医者の姿は滑稽であり、尺ではあったが。)

だが、そんな医者の語りも束の間、母親の人格による語りが始まる。

まるで、本当は息子がすべて殺人をおかしていて、それを庇うために母親が自分かやったと証言しているかのような語りが、

狂気的な笑顔とともに流れて、映画が終わる。

前述のように母親の人格が、息子への執着心から殺人をおかしたのか、あるいは、息子本来の人格が狂っていて殺人を犯し、それを母親の人格が警察の前で庇っているのか。

いずれのケースも考えられると思えてしまった。

被害者の女がモーテルに来た時、ロサンゼルスから来たと聞いて、息子が沈黙した。その様子はまるで『足がつかない女が罠にかかった』と考えているようにも見えた。

一方で、殺された女を見たときには母親に対して『血が大変だ』と、驚きの様子とともに報告をしていた。明らかに被害者が殺されたことを知らなかった様子だ。

そんなシーンを思い浮かべながら、この映画は2時間で終わらない映画だったんだなぁと深みを感じた。
ダルマパワー

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