SPNminaco

暗殺の森のSPNminacoのレビュー・感想・評価

暗殺の森(1970年製作の映画)
-
異常な世界において「正常で平凡な」人間であろうとする、罪と矛盾を背負った男。
始まるや否や、というかホテルのベッドでじっと闇を見つめ身を潜めるジャン・ルイ・トランティニャンが電話の音と共に動き出すや否や、映画は速いカットで畳み掛け、時系も超えて縦横無尽に目紛しく進み続ける。顔にかかる黒い影、横移動パンショット、傾いたアングル、舞い上がる枯葉、急ぐマルチェロ。
部屋や時間は二重写しとなり、ダイアローグと場面はリンクして、相反するものが表裏一体となる。ファシストと反ファシスト、ローマとパリ、司祭にする夫の告解と列車での妻の告白、ドミニク・サンダとステファニア・サンドレッリ、盲目の友人と見て見ぬふりのマルチェロ、逆光で影になる教授とどこにいても影法師のようなマルチェロ、その彼を影のように監視する護衛(2人はローレル&ハーディか)、殺そうとする相手と殺したくない相手、被害者と加害者。幻覚は現実で、現実は幻覚だ。生真面目に体制の忠実なイヌであろうと努めるほど、哀しき矛盾が滲み出る。
ここではファシズムは国家権力だけでなく、正常異常を分ける社会規範そのものでもあるように思える。女同士で踊るタンゴの有名なシーンは、その束縛と抑圧から束の間自由な瞬間かもしれない(それでも不自由なのだが)。渦巻く踊りの輪に飲み込まれ身動きできないマルチェロ。
クライマックスの森も、その後反転した社会でも、彼は大勢の中に紛れようとする。窓の外と内はぐるぐると視点を変え円環するが、激しく動いているようで動いていない、台風の目のように。どちら側にいても消えない卑怯者の烙印(サンドレッリの血の色)は、始まりと同じくマルチェロの顔を赤く照らし続ける。
顔のない暗殺者たちも追う側視点のショットも、マルチェロの立場を観客と同化させ、当事者意識とその罪を問うようだ。マルチェロは犠牲者でもあるので残酷な寓話、メロドラマだけど、歴史は何度も繰り返すし、常に普遍的な意味を持ってくる。「大勢いれば怖くない」は一番恐ろしいと。
ストラーロ撮影の絵画的陰影と構図、音楽美術に編集、無駄がなくどこを切り取ってもドラマティック。衣装もセンス良い。ようやく初めて観たけど、当時のベルトルッチは若かった訳だし、重厚な大作というより実験的で斬新で、若々しい映画に思われた。だからこそ後への影響も強くて、古びないんだろうな。
SPNminaco

SPNminaco