レインウォッチャー

暗殺の森のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

暗殺の森(1970年製作の映画)
4.5
哲学とハサミは使いよう。

…しかしなんて美しい映画なんだ。美しい、ってのはワードとしてちょっと大きすぎる気がして普段あまり使いたくないのだけれど、ここまで極まってたら致し方ないんじゃあないか。ベルトルッチ初体験、もっと早く出会うべきだった。
幾何学的な文様を描くライト、人の矮小さを強調するかのごとくだだっ広く無機質で牢獄的な建物、車窓の風景はいつの間にかブルー。とことん唯美的に「設計」されたFAKEの世界(※1)だ。

しかし、映画の中ではFAKEの追求によってこそ生まれ得るリアリティもある。今作でいえば、それは主人公マルチェロ(J・L・トランティニャン)のまさに虚像ともいえる人物像に厚みをもたせて重ねることができるだろう。

マルチェロはあるトラウマ的体験から「正常になること」「人と同じになること」に取り憑かれている人物だ。結婚もそれが周囲から求められる普通だからという理由で選んだに過ぎず、内心では妻ジュリア(S・サンドレッリ)(かわいい)のことも下に見ている。
彼は当時WWII前のイタリアを席巻していたファシズムに傾倒しているわけだけれど、今作は彼の性質を通して「ファシズム(≒全体主義)とは何か?」の本質と普遍性をこれ以上なく端的かつブラックに説明している。

まずひとつは、マルチェロの世間と同調したいという欲求そのもの。それは転じて、「異物は排除すれば良い」という短絡的な、しかし誰にもわかりやすく団結と安心を与えるアクションへと繋がる。やがてドイツでヒトラーがとった政策はこの最たる例といえるだろう。

劇中では、このことが何度も手を替え品を替えリフレインされる。
マルチェロが懇意にする友人とそのコミュニティは《盲人》の集まり、つまりは「真実が見えていない」(※2)。また、まさにタイトル通り森で惨劇が起こる場面において、ターゲットに襲いかかる者たちはみな一様にコートとハット姿であり、世間・世論といった本来はあるはずもない《平均の幻》が容易に人を殺すことを直接的に描いている(※3)。

さらに終盤、ムッソリーニ体制も下火になってきた頃のスラムをさまよう場面においては、労働歌を歌いながら行進してくる群衆(※4)にマルチェロの連れが呑み込まれていく。ここでは、世相が変わってファシズムという一種の流行が過ぎてなお、標的と風向きが変わるだけで、人は同じような行動を繰り返すものだと言っているようでもあって、射程が広く容赦がない。

そしてもうひとつは、《知》の悪用・濫用である。その例として、今作では哲学が用いられている。
マルチェロが組織から思想犯として抹殺を命じられるのは、哲学科の恩師でもあったクアドリ教授(E・タラシオ)。彼らが教授の部屋で交わす会話では、プラトンの『洞窟の比喩』が話題として挙がる。

ここで素人ながら恐る恐る『洞窟の比喩』について説明を試みるとするならば、これは「人はいかに物事の本質を知ろうともせず過ごしているか」の話。
洞窟の中で、ある囚人たちが背後の火で照らされた事物の影を眺めている。しかし、彼らは後ろを振り向けないよう縛られているため、影の主やそれを照らす火の存在を知ることがない。ここでポイントとなるのは、マルチェロと教授はそれぞれこの寓話に対して異なった解釈をしているっぽいぞ、ということである。

確かに、プラトンの説いたイデア論(※5)や哲人王(※6)の思想は絶対的な1たる《真理》を前提とするものであることから、ともすればファシズムや独裁政治との相性は悪くない。当然、プラトンの遺した哲学という遺産の本質はそこにはないわけだけれど、哲学に限らず宗教とか科学とか…が都合よく曲解されて政治に利用されてきた例はごまんとある。

教授がマルチェロを「優秀だった」と評しながらも、「この国では哲学を教えられない」と去った理由はここにあるのではないだろうか?
19世紀以降の哲学史(ニーチェらへんから?)においては絶対的真理を否定し、ものごとの相対的な見方を推し進めてきたはず。しかし、そのような複雑性・偶然性を受容する生き方よりも、ファシスト(マルチェロ)のように国家という指導者に脳死で従っていた方が、結局のところ人間にはずっとシンプルで楽ちんなのだ。ヒトは、みずから進んで洞窟の中へ帰って行ったのである。

さてここまで書いて気づくのは、この映画が、マルチェロが、決して「戦時中の狂った奴の話」なんかじゃあないことだ。
むしろ、SNSが飽和した現代においては思想や経済状況といった様々なレイヤーで細かくクローズドな分断が進み、目につきやすくなった暗いニュースや不安要素を狭いコミュニティの中で培養しておおごとにしがちだったりもして、誰もがどこかでこれ以上考えなくて済むような「答え」をくれる人を求めている。

お前たちは、俺たちは、きっと繰り返す。ラストカット、おどろおどろしい血濡れた灯りに照らされたマルチェロの物凄い表情は、そう言っているような気がしてならないのだ。

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でもたまに思わず笑っちゃうような不意打ちもあって楽しい。
こっそりパスタ掻き込みメイドとか、ママの愛人に即時往復ビンタしばきとか。

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※1:直近の作品なら、また方向性は異なるけれど『哀れなるものたち』とか思い出してしまった。

※2:「間違えたことがない」と言いつつ、靴の左右の色が違ってるシーン!ワルぅ〜。

※3:加えて、このときマルチェロはどう行動したか?その答えは「何もしない」…彼の安全圏からの傍観者としてのポジションを守るような振る舞いは、仲間からも卑怯者呼ばわりされるわけだけれど、戦争や死刑制度にもそのまま当てはめられる気がする。

※4:群衆の圧力については、今作といえばの語種でもあるあのタンゴのシーンにも表れていると思う。

※5:世の物事にはすべて、見たり触ったり感じたりできる見てくれとは別に不変の本質ってもんが存在して、人は誰しもそれを共有してるんだぜ、みたいなこと。推しの本体と、推しのブロマイドの違いに近いと思う、たぶん。

※6:民主主義の多数決とかろくでもねーことにしかならんから、哲学をマスターして真理を知る賢者がみんなを引っ張っていくべきなんだぜ、みたいなこと。プラトンは師匠ソクラテスが危険人物と見なされて民衆により排斥されてしまったことに「絶望した!」ってなったため、こんな風に拗らせたことを言い出したらしい。