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素晴らしき哉、人生!のEegikのネタバレレビュー・内容・結末

素晴らしき哉、人生!(1946年製作の映画)
1.0

このレビューはネタバレを含みます


・素晴らしくない、人生!
マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』が重要アイテムとして登場するが、19世紀アメリカ文学でいえば、むしろナサニエル・ホーソーン『ウェイクフィールド』を連想した。ある日突然、何の理由もなしに妻を置いて出かけ、家の近くに部屋を借りて20年暮らしながら、自分がいなくなったあとの妻や町の人々を観察し続ける短編小説。
この小説が描くように「自分がいなくなったあとの身近な人々の様子をこっそり観察したい」欲求というのは人間存在の根源的なところにあり、この映画でも、人生に絶望した主人公の自殺を止めるために、いかに彼の人生が「素晴らしき」ものであるかを本人にわからせるためと称して、この欲求が利用される。というか、『ウェイクフィールド』は主人公は普通にまだ生きていて、自分が突然消えたあとの人々を覗き見るプロットだが、この映画ではさらに進んで、そもそも自分が生まれなかったら町や身近な人々はどうなっていたのか、という完全にifの世界を見て、自分の存在、この人生の価値を確信したいという欲求があけっぴろげに表現される。しかも、この映画で描かれるそれは「自分がもし生まれていなかったら大切な人々や町が今よりもっと悲惨な状況になってしまう」という、なんとも見ていて気恥ずかしくなってしまうほどに都合の良いものだった。……そりゃあ、「もし自分がいなかったら人々は不幸になってしまう」ことを目の当たりにさせられたら、自己肯定感が刺激されて気持ちよくなってしまうのはわかるよ。わかるけど、同時にそれはどこまでもエゴイスティックで幼稚な欲望のあらわれであるということも残念ながら分かっているので、この映画の主人公に素直に感情移入してハッピーエンドで感動するなんてどうあがいても不可能だ。
しかも、こういうやり方で肯定される〈素晴らしき人生〉って、本当に素晴らしいものなのか? とも思ってしまう。こんなところで人生論を一席ぶつのも厚かましいが、しかし、「自分が生まれていなくても世界はたいして変わらないし、いまの自分の大切な人々もなんやかんやで今と同程度には幸せに生きている(だろう)」というある種もっとも残酷な事実、すなわち「自分の無価値さ」に真剣に向き合って絶望して、絶望するのにも疲れて飽きてからが本当の人生の始まりではないか。そのあとで始まる、特別なことは何も起こらない人生こそが真に〈素晴らしき人生〉なんじゃないか? と思う。ジョージ・ベイリーのように社会や人々にとって善なる影響を与える偉人もいるのかもしれないけれど、そういう〈特別〉な人間の人生を素晴らしいものだと肯定されたところで、じぶんのような凡人、むしろ悪役のポッターに近い人間にとってはなにも感動しようがないし(ずっとポッターだけを応援しながら観ていた)、「特別に善良で恵まれた人間の生のみが素晴らしい」という価値観はふつうにナチズム的な選民思想と地続きできわめて恐ろしいものだと思う。わたしはこの映画の提示する〈人生の素晴らしさ〉にはまったくノレなかった。そんな素晴らしさならわたしはいらない。まったく素晴らしくない人生を、素晴らしいものだと安易に肯定してしまいたくなる誘惑に抗いながら、ただ生きていく。


・歪んだキリスト教道徳
自殺はいけませんとか、他人に優しくする人間は報われますとか、清貧さが美徳とか、明らかにキリスト教道徳がメインテーマになっている作品ではあるが、その提示の仕方が歪んでいると思った。というのも、(わたしが雑に理解している限り)キリスト教は「現世でキリスト教の教えを守って慎ましく善良に暮せば死んだ後に天国で幸せになれますよ」という、別世界での〈報われ〉を根拠とした思想だが、この作品ではむしろ現世、これまであなたが生きてきた/そして現にいま生きているこの人生じたいがとても幸せで素晴らしく価値があるものだ、という現世肯定の思想だからだ。来世や天国といった現世を超越した世界を設定してそこで報われるというロジックは主人公たちにはいっさい検討されていない。
天国の天使(二級天使)もまた主要人物として登場するが、彼もまた、いわゆる天使的な造形で心から主人公を哀れんで助けてやるのではなく、あくまで一級天使になって翼を手に入れたいという自己利益のために主人公を助ける、人間的・世俗的なキャラクターとして設定されている。自分がいま生きている世界(=天使にとっては天国が"現世")での自己利益のために行動するなんてキリスト教道徳と真反対の振る舞いではないのか。
というわけで、キリスト教道徳を素朴に肯定しているように思える(ラストの大団円なんかはその典型だ)いっぽうで、キリスト教道徳の自己矛盾を暗に仄めかしているようにも受け取れる、実に歪んだ物語だった。



・その他の文句
ifの世界で「自分が生まれなかったら妻は独身のままでいる」ことが、さも本人(彼女)にとって可哀想なこととして描かれているのがキツかった。しかも、その直前に「自分がいなければ弟は9歳で事故死している」というシーンがあったうえで、弟の「死」よりも遥かに主人公にとってショッキングな事実として「妻の独身」が描かれるのだから参った。女は独身のまま歳を重ねるくらいなら死んだほうがマシってか。というか、そもそも「自分と結婚しなかったら妻は一生独身」と知らされるのは、女性を所有したい男性からすれば哀しいどころか嬉しい、都合の良い展開ではないのか。まさしく自分と結ばれるためだけに存在している運命の相手であるという福音なのだから。

あと、戦争関連の描写も〈時代〉を感じて凄みがあった。知人たちが出征して、敵戦闘機を14機撃墜したことを素朴に「素晴らしいこと」として描き、片耳が聴こえないために入隊できなかった主人公はここでもまた置いてけぼり感を覚える……とか、弟が戦功から有名になったことを疑いの余地なく「喜ばしいこと」として描く。対ドイツ・対日のWWⅡ言及もあり、1947年とまさに終戦して時間が経っていない時期の大衆映画であることの迫真性を感じた。

また、主人公のジョージ・ベイリーは自分のことを恵まれていない人間だと、自分の人生を不幸でつまらない人生だと認識しているが、まったくそうは見えないのがキツすぎる。町の重要な住宅金融会社の長男として生まれ、ちょっと弁舌を披露したら社長に推薦されるくらいには才能もあり、周囲の人間に恵まれ、幼少期から自分に想いを寄せる高嶺の花の女性と情熱的に結婚し、子供を4人もうけ……と挙げていけばキリがない。他人から見ればどんなに幸福な人間でも、自分が生まれた時から履いている下駄には気付かずに、現状に満足することなく幸福を、夢を追い求めるのが人間であるというのは認めるが、しかしこの映画でやりたいこと(凡庸な人生の素晴らしさの肯定)に照らして明らかに破綻している設定だと思う。

再び人生論というか「生と死」論に戻るが、やっぱり「自分が生まれていないifの世界を体験できる」という描写じたいに、なにか自分にはどうしても無視できない大きな欺瞞を感じるんだよな。そういう「if」が原理的に不可能であることこそが、この人生の素晴らしさの源泉ではないか、という気すらする。
これによく似た例を挙げる。希死念慮の常習者の気休めとして「自分が自殺したあとで残された身近な人々が悲しんだり後悔したり生前の自分を〈聖人〉として祀り上げる様子を想像して自分を慰める」行為はありがちだろう。これも、自分だって当然やったことはあるし、とてつもなく気持ちがいいのはわかる。ひねくれた形で自分の価値を見出して溜飲を下げることの快楽には抗いがたい。誰だってそうだ。でも同時に、自分が惹かれる〈死〉って、まさにそういう「自分が死んだあとの世界」とこの自分とを完全に切り離していっさいの想像の余地を断つ、その潔癖性にこそ本質があるとも思う。死んだあとで幽霊みたいになって、自分の葬式で涙を流す人々を眺める……みたいなフィクション作品は腐るほどあるけど、そういうことができる時点で、それは〈死〉ではないよね、と言いたくなる。〈死〉のいちばん大事なところを欠落させて、〈生〉きている自分にとって都合の良いところだけを残した、死のように見えてまったく正反対のなにか、だよね、と。そういう想像(こういう想像)がもういっさい無効になる不可逆で絶対的な行為だからこそ〈死〉を希求しているわけで、つまり自分は絶対に〈死〉を経験することはできないということだ。
この映画では〈死〉ではなく〈生〉に関して、これとほとんど同じ欺瞞に満ちたことを描いている。いまここにある〈生〉って、「自分が生まれていなかった場合の世界」を絶対に体験することはできないという、その不可能生にこそ価値のすべてがある。それを可能にしてしまったら、素晴らしい人生どころか、まったく無価値な、人生と呼ぶ資格もない形骸的ななにか、になってしまう。
この意味で、あの二級天使は、ジョージ・ベイリーの命を救うどころか、彼を「殺した」のだと言える。酔ったベイリーが用いた「堕天使」という呼称もあながち間違っていなかったということだ。翼の生えた天使は善良な人間を天国へ導くが、翼のない天使は善良な人間を生かしたままに殺す。
ひとりの落ちこぼれが殺し屋として初めて仕事を成し遂げる、そんな映画だった。


・好きなところ
自宅パーティで泥酔した叔父さん(だっけ?)と主人公のやりとり(「帽子はどこだ?」「どれが私の帽子だ?」「真ん中のだよ」)はふつうにクスッと笑えて良かったし、その後のRight Directionのくだり(主人公と母親で再演される)は露骨にスクリーンにおける右と左に何らかの象徴性を持たせているんだろうと想起させてくれる感じがすき。
また、大学卒業パーティ(主人公は卒業してない)でチャールストン耐久大会が突然始まる(修行僧やアスリート並みに肉体的にキツいことしだしてワロタ)のと、そのあとで床が割れてあらわれたプールに主人公カップルが落ちて他の皆もその場のノリで次々と飛び込むシーンのわちゃわちゃカオス感は好き。
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