シゲーニョ

真夜中のカーボーイのシゲーニョのレビュー・感想・評価

真夜中のカーボーイ(1969年製作の映画)
4.5
何となくだが…自分が物心ついた頃、
60年代後半から70年代前半に観た洋画は、主人公が大抵死ぬイメージがある。

ブルース・リー直撃世代の自分からすれば、「ドラゴン怒りの鉄拳(72年)」。
そのラストシーン、ストップモーションの元ネタとなった「明日に向って撃て!(69年)」。

パニック・ムービーだって「ポセイドン・アドベンチャー(72年)」や「大地震(74年)」など、災害に屈するわけではないが、堂々と「死」を迎える主人公が描かれている。

「バニシング・ポイント(71年)」では、大量のパトカーとカーチェイスをした主人公の車が「ヤッタゼ!」と高揚しながら大爆発してジ・エンド。
ピーター・フォンダ主演の「ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー(74年)」も、悪事を散々働いた主人公カップルが警察の追手から逃れて、「ヤッタゼ!」と言った瞬間に踏切で貨物列車に激突し、突然奈落の底に突き落とされる。

やがて自分が小学生高学年になった頃、この種の映画を(大括りで)「アメリカン・ニューシネマ」と呼ぶことを知り、名画座やTVでやってるものなら、片っ端から観まくった。

「俺たちに明日はない(67年)」に始まり、「イージー・ライダー(69年)」「センチュリアン(72年)」「グライド・イン・ブルー(73年)」、そしてスピルバーグの劇場デビュー作「続・激突!/カージャック(73年)」…。

そして、これら作品が、社会に反発するハナシだということに気付き、「一生懸命頑張っても、そう簡単に報われない」と、なんか説教されているような気がして、若干距離を置くようになるのだが、ちょうどその頃に出会ったのが、本作「真夜中のカーボーイ(69年)」である。

初鑑賞は1975年の2月、NETテレビ(現在のテレ朝)系列の日曜洋画劇場。

本作は日本では「一般映画」として公開されたが、アメリカ本国では公開前年にレイティングシステム(映画を鑑賞する際の年齢制限の枠・規定)が制定され、18歳未満鑑賞禁止の「X指定」を受けてしまう。
劇中、ホモのメガネ男子が主人公をBlow Jobしているように見えるシーンが問題になったらしい。

今振り返れば、日本のレイティングに当て嵌めると「成人映画」に指定されたような本作を、よくもまぁ、日曜夜のお茶の間で放送できたと思うし、そんな映画を当時小学五年の自分に観るのを許した両親も、寛大というか、或いは子供の興味に無関心だったのか分からないが、大人になった今の自分からすれば、只々スゴい親だったと感心するしかない…(笑)。


本作は田舎町のマッチョなカウボーイのジョー(ジョン・ヴォイト)と、右脚を引き摺った肺病持ちのゴロツキのリッゾォ(ダスティン・ホフマン)の二人が主人公。

「ルーザー(負け犬)」ということ以外に共通点のない二人が、大都会の片隅で出会い、滑稽でもあり、美しくもある、ニューヨークでの地獄巡りをしながら、次第に強い絆で結ばれていく、オトコ同士の“どん底”ラブストーリー。

これまで観たニューシネマの主人公の「敗北」で終わる結末に、違和感を感じ始めていた自分は、本作の登場人物が惨めにカッコ悪くても、なんとか生き続けようとする姿、その着想、筋書きに惹かれてしまったのだ。

テキサスのドライブインで、しがない皿洗いをしていたジョーは、一念発起してニューヨークで「ハスラー(男娼)」として一旗揚げようとする。

「こんなところでクサっていられるか!
 俺は東部へ行く!金持ちの女が男を買っているんだ!
 東部の男はホモだからな」

ロデオが盛んな田舎町で生まれ育ったゆえからか、「西部劇風のマッチョな男がモテるんだ!」と思い込みすぎて、ニューヨークへと向かうその出で立ちは、テンガロンハットにウェスタンブーツ、胸にヒラヒラがついたジャケットを羽織るなど、全身カウボーイ仕様。さらにスーツケースの表面が乳牛柄(!!)と、手抜かりがない(笑)。

この遠距離バスに乗って意気揚々とジョーが上京しようとするシーンに流れてくるのが、ニルソンの歌う、「Everybody's Talkin' (うわさの男/68年)」

「人が何と言おうと耳には入らない/俺の心の響きだけ/人が俺を見てても気にしない/目に影が映るだけ/(中略)この服の似合うところへ、夏の風に乗って船を出すんだ/飛び石みたいに海を軽く越えるんだ」

この曲は本作のために書き下ろされたものではなく、フレッド・ニールが66年に発表したアルバム「Fred Neil」収録曲を、その2年後、ニルソンがシングルとしてカバー。

その歌詞・曲調は、世間知らずで自分を過信した田舎者の抱く、「大都会で大金稼ぐ夢」をパンパンに膨らませた、そんな浮ついた気持ちと上手くマッチしている。

「バカにされても構わない。俺には自分に合ったピッタリの場所があるんだ」というジョーの楽観的、お気楽な感じが伝わってくるのだ。

(ちなみに、ニルソンは本作のために「I Guess The Lord Must Be In New York City」という新曲を書いたらしいが、残念ながら採用されず…)

ニューヨークに着いたジョーは、早速、道行く金持ちでオトコ日照りのオバサマたちに、片っ端から声掛けしてみるも「テキサスから来たばかりなんですけど、自由の女神はどこっすか?」というダサさ加減のナンパため、けんもほろろに無視されるか、罵声を浴びせられるかのどちらかで、全く相手にされない。

まさに昭和の大ヒット曲「俺ら東京さ行ぐだ(84年)」のような風情・趣。
しかし物語が進むにつれて分かってくるのだが、「無い物尽くしの田舎」が嫌になった吉幾三とは、ちょっと訳が違う。


本作では、度々、ジョーが鏡に映る自分の姿を眺めるシーンが挿入される。
これはジョーの「自意識の強さ」、「内面の不安」を顕していると思う。

男娼の仕事で街へ出かける際には「この格好、最高!オレって二枚目だな〜♪」と鏡の自分に言い聞かせるも、街に一歩出たら、高級宝石店ティファニーでウィンドウショッピングする有閑マダムをナンパしようとしても、窓に映る自分の姿が見窄らしく思えて、ビビって声をかけられない。

また、稼ぎがなく、ひもじいため、レストランの外から厨房で焼かれるスクランブルエッグを物欲しげに眺めるのだが、ガラスに映った情けない自分の表情にハッとし、薄ら寒い通りへと踵を返す。

ジョーは自分が他人から「どう見られたいのか、どう思われたいのか」という強い理想はあるものの、そうなるために「どうすべきか」か、その術が分からないでいる。

そんな心許無いジョーのリトマス試験紙みたいなモノが、「幻像」と「実像」を映し出す鏡なのだろう。

劇中、リッゾォに「ニューヨークじゃ、カウボーイ野郎なんてオンナに笑われるだけだ!42丁目でお前に声をかけるのはホモしかいない!」と愚弄されたジョーが一瞬絶句しつつも、「じゃあ、ジョン・ウェインはホモなのかよ?」と反論するシーンがある。

これはジョーが「自分の理想は、どこの世界でも他人から羨まれるモノだ」と盲信している訳ではなく、ジョーが無邪気すぎる、イノセントな存在であることを象徴している台詞だ。

ジョーがカウボーイに憧れるのは、フロンティア・ヒーローを演じたジョン・ウェインに惹かれ、真似したというよりも、自分が愛した祖母のボーイフレンドが皆、テンガロンハットを被ったマッチョな男たちだったからに他ならない。
(もちろん、祖母の乱れた性生活に対する反動と捉えることもできるが…)

母子家庭で育ち、母から半ば捨てられた自分を可愛がってくれた祖母は、ジョーにとって、唯一の肉親。しかしベトナム出兵の間、息をひきとり、死に目に会えなかった「疚しさ」がある。

そして、田舎町一番のモテ女から「あなたは特別よ…」と言われ、有頂天になったものの、実は彼女は尻軽女でバチが当たったのか町の男たちに輪姦され、挙げ句の果てに精神病院送り…。(その際、ジョーも男たちに、お尻のXXXを犯される)
ジョーはこの一件でトラウマを抱え、「カウボーイみたいな強い男にならなくては」と強迫観念に駆られてしまう。

こんな過去ゆえに、ジョーが都会に出たのは、「無い物尽くし」の田舎に嫌気がさしたのではなく、家族もいない、心の拠り所もない、自分の「居場所」を探すためだったのでは…と思えてしまうのだ。

また、頭が悪そうながらも「気のいい田舎の兄ちゃん」に見えるし、時折見せる、困ったような顔が絶品で、「もの哀しさ」が体臭のように溢れ出ているように思えてしまう。

これ迄のニューシネマにありがちだった「社会への反発」とか「思想」が、ジョーに一切無いのも、共感できるポイントだ。

ある意味では、リッゾォの方がまだ「生き方の美学」があるかも知れない。

ジョーを「夢から醒めない男」とするなら、リッゾォは「夢に捨てられた男」だ。
父子家庭に育ち、ロクに学校に通わせてもらえず、靴磨きの仕事を強要された挙句、肺病持ちになり、今じゃ右脚も患い、引き摺って歩くのがやっと…。

「夢なんてない!ただ今を生きるしかない!」
老朽化のため、市が住民に退去命令を出した無人のアパート(ガスも電気もない!)に勝手に住み込んで、果物屋で万引きしたり、人を騙して日銭を稼いだり、「お前は薄汚いラッツォ(ネズ公)だよ!」と罵られながらも、ニューヨークの最下層で、“孤独”に生き抜くやり方を貫いてきた。

しかし、リッゾォに夢がない訳じゃない。
劇中で「人が生きていくのに2つ必要なものがある。日光とココナッツミルクだ」と語っているように、陽光溢れるフロリダで豪遊暮らしをするのがリッゾォの夢だ。
だが、幼少期から幾ら夢見ても毎回裏切られてきたリッゾォにしてみれば、「夢など現実に起こるわけない」と諦めるしかない。

余談ながら、
劇中、リッゾォがフロリダでの生活を夢想するシーケンスがあるのだが、
たくさんの熟女に囲まれジゴロ風に気取ってみたり、浜辺のパーティーで豪華な食事を客にもてなすリッゾォの姿を、マイアミの暖かく眩しい日差し、そのフレアを入れ込んだ、露出オーバー気味に撮影している。

逆に、廃屋のようなアパート内は、露出アンダーの、青くて灰色がかった薄寒い世界だ。

これは撮影監督のアダム・ホレンダーのアイデアらしく、2つのシーケンス、フロリダ(=夢)とニューヨーク(=現実)にコントラストをつけて描くことで、観る側によりインパクトを与えたかったとのこと。

ポーランド出身のアダム・ホレンダーは、本作までハリウッドではこれといった実績はなかったが、幼少期からの親友ロマン・ポランスキーの紹介により、本作の撮影監督に抜擢。

先のシーケンス以外にも、タイムズスクウェアの雑踏の中を歩くジョン・ヴォイトを120ミリの望遠レンズで捉え、その異質さ・孤高ぶりを強調して見せたり、客探しに街を彷徨うヴォイトを昼夜同ポジで撮影することで、空虚感と疲弊感を同時に表現するなど、以降「悲しみの街かど(71年)」や「スモーク(95年)」といった作品で、ニューヨークの実景を見事な「ルック」「フレーミング」で何度も描ききった辣腕ぶり、その萌芽を本作「真夜中のカーボーイ」で感じ取ることが出来る。


閑話休題…

そんな人生の先が見えないリッゾォだったが、ジョーを金のなる木に思ったのか、その純粋さに心絆されたのか、マネージャー役を買って出て、ジョーの仕事の後押しをする。

ここからは勝手な推論だが、普通ならば目も合わせたくもない、関わりたくもない、水と油のような性格のジョーとリッゾォが、たまたま大都会の片隅で出会い、次第に肩を寄せ合っていったのは、「俺たち、何かを捨てて、諦めかけて生きている、同じ人間なんだ…」と互いに認め合えたからだろう。

終盤、リッゾォに向かって言う、ジョーの「お前と俺は一心同体だ…」は、まさにそれを象徴した台詞だと思う。

言い換えれば、二人の共通の思いは「誰かに愛され、認めてもらいたい」という願望である。
そして、誰とも友だちになったことがない、誰からも愛されたことがない二人は、「その人のために何かをしたい」「友だちになりたい」「家族になる」という、本来、ヒトが持つべき“慈愛”の感情を取り戻していく。

ジョーはリッゾォのことを思い巡らせながら街角に立つ。
リッゾォもそんなジョーを見て、夢馳せる。
フロリダでの暮らしは、二人にとって「生きていることを実感する」ための究極の目標なのだ。

しかし、そんな二人の思いに反して、現実の社会は厳しく、救いの手を差し伸べてはくれない。

一向に稼ぎの無いジョーは、田舎から肌身離さず大事に持っていたトランジスターラジオを質屋に売るも、手にしたのは僅か5ドル。さらにはリッゾォの薬代のために、自分の血液まで売る(!!)。

一方のリッゾォは、冬でも暖房のない不潔な部屋でシケモク咥えていることも理由だろうが、ドンドン肺の病状が悪化していく。
(この日増しに頬がこけ、顔の肌が青黒くくすみ、ボロボロになっていくダスティン・ホフマンのメイクを監修したのは、「ゴッドファーザー(72年)」「エクソシスト(73年)」「タクシードライバー(76年)」などで、徹底したリアリズムに拘り驚愕のメイクを生み出した天才ディック・スミスである)

こんな救いのない極貧生活が淡々と映し出されるわけだが、その背景に流れるジョン・バリー作曲のメインテーマ「Midnight Cowboy」は、観ていて切なくなる絵づらに反して、二人の心の奥底の美しさを表すかのような、叙情性豊かな調べで、ジャン・トゥーツ・シールマンスのハーモニカと相なって、聴いていて心にじんわり染みこんでくる。
[注:サントラ盤のハーモニカはトゥーツ・シールマンスではなく、トミー・ライリーなので要注意。その道のプロが聴くとビブラートのかけ方がチョイと違うそうです…]

最後に…

本作「真夜中のカーボーイ」は、どん底から自分を救い出す物語であり、若者にとってのイニシエーション、普遍的な“通過儀礼”の物語とも言えよう。

公開前年のアメリカはベトナム戦争の泥沼化、公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キングがテネシーで銃殺されるなど、理想を喪失した若者たちが、やり場のない怒りを抱え、社会に溢れかえっていた時代である。

そんな生き難しさを抱える者たちへ、心を静かに落ち着かせるように、時に激しく打ちつけるように、「時代に流されるな。自分を見失うな」と語りかけている作品なのではないだろうか。

今、報われないからって、
自分を嫌いになったり、先の人生を諦めるべきじゃない。
居場所を変えることや、人との新たな出会いが、
「なりたい自分・なりたい大人」に近づくきっかけになるかも知れない。
もしどん底に落ちたとしても、あとは跳ね返って上がるだけ。
それが、若者の特権なのだと…。

終盤のクライマックス、フロリダ間近の休憩所でジョーは、ウエスタンブーツをゴミ箱に投げ捨てる。
それはバカバカしい夢を捨て去り、今、何をすべきか悟った、“本当の男”になった瞬間だと思う。


そして、終点へと向かうバスの中で
ある悲劇に見舞われたジョーは複雑な表情を見せる。

ジョーとリッゾォ、二人の絆は本当に友情だったのか。
ただ寂しさを埋め合う仲だったのではないか…。
それは最後まで分からない。

しかし、取り残されてしまったジョーの姿を観ていると、静かに胸がグッと締めつけられる。

数々のアメリカン・ニューシネマで、救いのない結末を迎えた主人公たちは、観終わった時には下腹にズシンと来るものがあったが、年齢を重ねていくとその印象が薄らいでしまう。

だが、このジョーの顔だけは一生忘れないだろう。





追補

レビューをアップ後、久しぶりに本作を見返して、
再発見というか、ちょっとビックリしたことがある…(汗)

先ず、物語後半で描かれる、ポップアートの鬼才アンディ・ウォーホルのファクトリーを模したアシッドパーティー。

パーティーの主催者や客の中に、当時ウォーホルのミューズだったVivaやウルトラ・ヴァイオレット、ウォーホルの小間使いで後年「悪魔のはらわた(73年)」「処女の生血(74年)」を撮った監督ポール・モリセイの姿が確認できた。

そして、劇中で時折インサートされるサブリミナルカット。

初めての客となるキャスの部屋のTV映像(夢想主義者の作曲家ガーシュインを描いた「アメリカ交響楽(45年)」や、オリビア・デ・ハヴィランドが虚構のヒロインを演じた「暗い鏡(46年)」等が高速スピードでカットバック)や、パーティー会場の極彩色に妖しく飛び散るアメーバーのようなスクリーン映像の視覚効果を担当したのが、「博士の異常なる愛情(64年)」「華麗なる賭け(68年)」「ブリット(68年)」のメインタイトルを手掛けた、巨匠パブロ・フェロだと判明したこと。


また、ジョーやリッゾォの台詞の端々に「女性蔑視」の匂いが若干感じられるが、終盤に登場するシェリー(ブレンダ・ヴァッカロ)が身に纏う衣服や自宅の高級アパートメントから、本作の時代背景が、実は「フェミニズム」の黎明期だったことに気付かされる…。

製作サイドは、そんな時代の気運を冒頭から匂わせている。
ニューヨーク行きのバスの中で、ジョーにガムを貰う女の子が読んでいるアメコミ。
それはDCコミックから刊行された1968年発売の「ワンダーウーマン」178号だ。
その中でワンダーウーマンは、これまでお決まりだった赤青&黄金のスーツを脱ぎ去り、最新のモードファッションで登場する。(タイトルは「古いものは忘れよ!」)。
これは、それまでの肌の露出度が高いスーツが、「男性読者を喜ばせるだけ!」という批判に対応した以外の何ものでもない。

コミック中、ワンダーウーマンが纏う白いワンピース姿は、劇中、アシッドパーティーでのシェリーが着るドレスにソックリなのだ…。