たなかひろき

仮面/ペルソナのたなかひろきのネタバレレビュー・内容・結末

仮面/ペルソナ(1967年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

前衛芸術…シリアスだけど編集には遊び心も感じる。
観客を飽きさせまいというサービス精神。
そこは「演技」というテーマにも関わっている。

映画でありながら、絵画であり、演劇、詩、文学、漫画でもあるような。
それらが映画という一つの媒体のなかに合体した総合芸術。

どのシーンも静止した絵画のように美しい。
カメラに向かって独白したり、激しい感情を訴えたりする場面は演劇みたいだ。
台詞はところどころ詩のようで、
語りは文学のようでもある。
そして、構図が漫画みたいな、ちょっと戯画的で滑稽に見えるシーンもある。

前半の静けさと後半の激しさのギャップが別の映画みたいですごい。
自他境界の曖昧さとか、崇拝と逆上、ヒステリックさはすごく女性心理だし、役者心理でもあるような。

静けさと激しさ。
激情の表現と、冷静な演技のコントロール。
役者にはその両方が必要だ。

演劇をするのは女性の方が多いけど、演技という行為はどちらかと言えば本質的には女性的なものなのかな。

社会的に、自我を抑圧して仮面を被る=演技を強いられる傾向が強いのは女性だろうし。

聖書や神、イエスキリストへの目配せもあったけれど、それは「演技をする人」=「キリストのような犠牲者」という意味なのかなと思う。

たとえば夫の前で「良き妻」を演じ続ける女性は、人のために本当の自分を殺しているという意味で犠牲者と言える。

看護師であるアルマも、エリーサベットに献身する、エリーサベットを理解し演じることを強いられるという意味で、犠牲者にされようとしていた。

エリーサベットはこれまでの人生で自分が演技によって犠牲にされ続けてきたことの復讐をアルマにしようとしていたのかな。
自分の苦しみを誰かに理解してもらう、演技を通じて「体験」させることで、傷を癒そうとしたのか。
女性が愚痴を聞いてもらってスッキリするアレと同じだ…

アルマはエリーサベットに呑まれそうになって、決別するけれど、エリーサベットは最後に救われたのだろうか。
アルマがエリーサベットにささやく「無」は救いの言葉のようにも聞こえた。
天国への信仰を失い、地上が地獄である人間にとっては、無になることだけが救いなのかもしれない。
たなかひろき

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