Ryo

仮面/ペルソナのRyoのレビュー・感想・評価

仮面/ペルソナ(1967年製作の映画)
4.8
テーマ
人格の融合
どれが本当の仮面(=人格)なのか、二人はお互いの人格を侵食しあうことで新たな仮面を見つける。
そしてベルイマンの映画に対する思いと情熱。映画とは芸術とは何か。芸術は人を救えるのか

ユングの提唱した誰もが仮面を被り演じてるというテーマを取り扱っている。

人間は誰もが表と裏の顔を使い分け仮面を被ってる。そうして人間関係を円滑にコントロールするのだ。自分自身もそうだがそのバランスが崩れると、内面の自我(裏)と「仮面」(表)のどちらが本当の自分なのか判断がつかなくなり、二重人格ではないかと疑うようになる。

人と接する時と1人でいるときのギャップが激しすぎるとどっちが本当の自分かわからなくなる。病気になる人もいる。私個人は1人でいるときの自分が本当だと思ってるが人と接してるときその仮面を被った自分に本当の自分はこっちなんだと侵食されそうになる。この映画はそうゆう事だろう。

エリザベートは“仮面”であり、アルマがその“内面”として描かれてる。自身の罪と欲望を語る看護婦のアルマとは、女優としてのペルソナを被るエリザベートの抑圧された内面であり、内面と外面がぶつかり、理解し合い、やがてひとつに統合されるまでを描いた映画である。


失語症の女優と、幸せな家庭を夢見る看護婦二人はある別荘で二人だけで療養生活を始める。看護婦は自ら仮面を外していく。そして主人公二人の人格は侵食しあっていき、人格がぼやけていく。そして最後にアルマとエリザベートの顔が合体しエリザベートはアルマの血を飲む。アルマも今まで憧れていた女優のエリザベートの内面を知り、女優も一人の人間だしダメな部分もあるということがわかる。アルマ自身も、今まで目指していた理想像とは決別し、自分の生き方を見つける。


ーオープニングー
・まず最初は二つの強烈な光と熱がだんだん明るくなっていく。映写機に使う光だ。9,8,7,6(ギリシャ語でセックス)でペニスが映ります、次に古いアニメで胸に水をかける、次に実際は唇だが横に移し女性の陰部に見せる。これはセックスを意味してます。
・そしてその後タランチュラと羊の首と内臓、手を釘で打ったシーン、老人の死に顔。これは死を意味しており羊は生贄の象徴、蜘蛛はベルイマンの映画における神の象徴、手を釘で打つのはイエスキリスト。
・少年が読んでる本は「現代の英雄」この中にこの映画のアイデアとなったセリフがある。「俺には二つの人格があるんだ。一つは現実に生きてる人格。もう一つはそれを批評してる人格。」
これは二人の人格の融合であり、一人の二つの人格の話でもありますよと暗示してる。
・少年が触ろうとしてる顔はわざとアルマなのかエリザベートなのかわからないようにしてます。これは映画全体のテーマ人格の融合が関係してます。

ーアルマとエリザベートの象徴するものとはー
アルマ=一般人
エリザベート=芸術家+ベルイマン
芸術家というのは私生活を無茶苦茶にしいろんな人に迷惑をかける。しかしそれで出来上がった作品は人を救うんだ。エリザベートは他人に迷惑をかけ私生活も崩れかけてる。でもこの女優を見たアルマは普通に行きてこうと人生を変えられるのだ。芸術家たちの人生を犠牲(羊の首が切られるシーン)にして人々をめちゃくちゃな人生から救うのだと暗示している

ー少年の写真ー
これはユダヤ人街ゲットーを写した写真でユダヤ人がドイツ兵へ反抗した。しかしその後ユダヤ人降参したがその降参する時に少年を一番前に出した有名な写真である。おもて面はエリザベートの子供を思い出させるとして描かれてるが、焼身自殺をするベトナムの僧侶もそうだがベルイマンの思い、芸術は人を救えるのかというのを表している。

ー女優の夫が別荘に会いに来るシーンー
考察1、エリザベートは母性がないと言われ子供を作り母親の仮面を被り、職業でもいろんな仮面を被り、夫が病院に来た時はアルマの仮面を被りよき性格の持ち主アルマとして喋った。母性がないと言われたことについてもそれをアルマが知るはずがない。よってこのシーンとすぐ後のシーンでわかることは2人の人格が融合し仮面と素顔なのだろう。

ータイトルー
ペルソナ=人格、仮面
昔ギリシャ(世界中でも)では演劇の際必ず仮面をかぶっていた。よって演劇、女優について語った映画である。
そしてユングは、人は皆仮面を被りシチュエーションに応じて演技してる、時によって仮面を付け替えていると言ってる。

ーこの映画にかけたベルイマンのメッセージー
失語症の女優はベルイマン自身です。実際に働きすぎで入院し、戦争や社会への無力感、僕のやってる芸術は現実に役立ってるのだろうかと悩んでたそうです。そのため坊さんのガソリンをかぶって焼身自殺したニュースゲットーにいる少年の写真が出てくる。少年の写真にはもっと深い意味があり、エリザベート役の女優さんのおじいさんはユダヤ人ではなかったが助けるために反対運動をしていた。そのため収容所に送られ殺された。人々を守ろうとしたのに殺された実の爺さんがいる。なのにこんな女優なんかやってていいのかというベルイマンのメッセージ。
最初ベルイマンはタイトルを「映画」にしていた。劇中途中でフィルムが止まりひび割れ焼けるシーンがある。あなたが見てるものは映画ですよというメッセージ。すなわち冒頭のシーンも、映画はセックスで暴力で死であると暗示している。さらにラスト、治療が終わったエリザベートは帰って行きそしてメイクをしたエリザベートが映ります。これは復帰を意味しそのあとすぐにカメラを乗せたクレーンが降りて来ます、そこに乗ってるのはベルイマン自身です。「僕は治療が終わりました。これからも自分を犠牲にして人々を救うために映画を撮り続けますよ」と映画に対する結論が出た映画なのです。
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