takanoひねもすのたり

真夜中のパーティーのtakanoひねもすのたりのレビュー・感想・評価

真夜中のパーティー(1970年製作の映画)
3.5
再鑑賞。
 
フリードキン監督作。 
元は舞台劇。
舞台の配役をそのまま起用、オネエ系の俳優さん以外は全てゲイ、ハリウッドが初めて同性愛を真正面から描いた作品として有名。

ゲイ仲間ハロルドの誕生日を祝うためマイケルのアパートに集まる仲間達。
ハロルド(主賓、ユダヤ系ゲイ)
ハンク(ラリーと同棲中、数学教師)
ラリー(写真家、ハンクの恋人、浮気症)
バーナード(書店員、アフリカ系ゲイ)
エモリー(オネエ系、ラテン系)
ドナルド(マイケルの恋人)
マイケル(主催、カトリック)
そこに、マイケルの大学時代の友人のアラン(ストレート、妻子有、マイケルの性指向を知らない)が現れたことにより、みなが段々と本音を曝け出していくことになる密室劇。

パーティーが進むに従い段々と言動が強くなっていくマイケル、最後にはあるゲームを強いる。
同性愛者であること、故に孤独であること、豪奢な生活をしていても拭えない空虚と葛藤。
仲間たちも生活の中でそれぞれに同様の闇がある。
仲間内でハロルドは達観した位置にいるけど阿片チンキを必要としてるあたりが闇深い。

当時の同性愛コミュニティの雰囲気を伺えるような、宗教観、ゲイフォビア、クローゼットクイーンに関する心理描写、演出上の誇張を含むにせよ大分赤裸々なんではないかと思う。
出演者が当事者だし。

NYのゲイパレードが始まったのが1970年、ゲイ解放運動の波はその前(WW2以前)映画の中の時代設定、60年代後半は市民権運動や女性解放運動(第ニ波)が機運に乗ってた時期、ストーンウォールの反乱がこの頃だっけかな……とぼんやり考えつつ観てた。
歴史的・宗教的価値観による偏見が強くある分、同性愛が禁忌とされた"異端者"への排斥は当時は強かったろうなと想像する。

主人公のマイケルは「神は必要だ」と言い教会にも通う人間で、だからこそ異端である自分を受け容れがたく死を恐れる。
同質の人間でありながら周囲を欺き続けるアランを執拗に責める理由も、自己嫌悪の投影なんだろうと思う。

何にせよ、それぞれの生き方が察せる分、パーティーでの皮肉や嫌味が、彼ら鎧のようにも処世術にも感じ取れ、言葉で武装しながら生きる術を模索する姿は、普遍的なドラマなのだろうと思ったり。

この当時から80年代のHIVによるゲイコミュニティの混乱を生きた彼らの折々の運動にリスペクトする。

現在の……同性愛とはまた別の例の問題は、正直もう分かんない。
数年前、英のある著名人が発言した内容への一部の映画クラスタの反発が強烈なんだよな……、私個人は発言内容そのものは別に間違ったことは言ってねぇし差別じゃねぇだろと思ってる派なんだが……🙄(独り言)