そーた

話の話のそーたのレビュー・感想・評価

話の話(1979年製作の映画)
3.7
眼差しの先

物理学では、
時間は一方向にしか進めないようだ。

要は後戻りが出来ないということで、
当たり前のようなんだけれど、
でも考えてみると案外不思議なものだったりする。

だって、
空間内では行ったり来たり出来るというのに、
時間というもう一つの次元が不可逆的だなんて、
ちょっと納得がいかない。

それで、
"話"というものも何だかそれと似ているんじゃないかと思えてしまう。

だって、話の中の登場人物達はただただ語られるがままで、
話の外側へ干渉することは決してない。
終始受け身を決め込んでいる。

そりゃそうだと結論付けてしまっては、
もはやそれまで。
妙に夢がない。大人びている。

果たして本当にそうなのだろうか。
ユーリ・ノルシュテインによるこのアニメーション。

話し手の力学を無視し、
逆に話し手に語りかけてくるかのような、
摩訶不思議な物理法則が成り立っているように感じてしまった。

もしも、
話の中のキャラクターが逆に僕らの世界を覗き込んでいるのだとしたら。

その逆説性がこの短編アニメーションの言わんとしていることなのかどうかは僕には決して分からないし、
恐らく違うのだろうけれど、
仮にそのように考えてみるとするならば、
想像の世界から照らされた僕らの現実世界とは、
なんとも不自由なことこの上ない。

現実社会が孕む雑多で大層に込み入ったわだかまりって、
もしかすると人間が持つ滑稽さの一端なのかもしれない。

そんな滑稽さの対極に、
誇るべき人の創造性があるとする。

そして"話"をつむぎ出すような、
無から何かを生む能力が、
その創造する力こそが僕ら人間の本懐なのだとしたら。
果たして僕達人間は日々その真価を発揮できているのだろうか。

"話の話"というメタ化された視点。
それが冒頭でこちらをじーっと見つめるあのオオカミの眼差しなのだとすれば、
この作品は僕らに対する視角外からの攻撃なんだと思えてならない。

物理法則を無視し時間が巻き戻っていくかのように、
語られるだけの存在が、
自身に向けられたベクトルを逆にこちらへと向け返す。

人間の創造性が、
翻って人間の現実へとフィードバックして来たのならば、
その時こそ僕達はその思いもよらぬ指摘を受け止めて、
真摯に自戒すべきなんじゃないだろうか。

アニメーションの神様。
恐るべし。

なんて事を思った29分間。
この圧倒的な詩的世界。
解釈は如何様にもできるはず。

たとえ、的はずれな解釈でもそれはそれ。

幸か不幸か、
決して見る前の自分に戻ることは出来ない。
もはやそう感じたのだから仕方がない。

巻き戻らない時間を都合よく解釈し、悦に入る昼の時分。

なんだか、目前にある広告のキャラに見られているような気になった。
そーた

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