ニューランド

新東京行進曲のニューランドのレビュー・感想・評価

新東京行進曲(1953年製作の映画)
2.9
☑️『新東京行進曲』(2.9)及び『二人だけの砦』(3.8)▶️▶️

 知名度の低さから観るのを躊躇い2日前に予約した時は、残席2枚だけだった。上映機会が少なく、しかも川島だ、ということか。もう1本川島作品があったが、そちらはとっくに完売していた。席も隅だったせいもあるが、ずっとノルことなく観ていた。
 端正で正確な図と繋ぎ、美術と風俗の隙のなさ、立体的な力と運動性。確か押え以上のドンデンや、対象位置示したり·視界的なパン、寄る·退くやフォローや空撮の移動、役者のキャラの理解と自らへの批評性、様々な場の伸びやかさ·バランス取りと重い野暮の排除、川島の映画的底力はあちこちで証明されているが、本作もご多分に漏れない。スキッとした映画の快感がある。
 様々な人物たちの偶然の(少年時からの)再会続きと相互の因縁·関係の発見、政財界の巨大悪の暴きのスケールと華やかなスポーツへの収斂。まるで、ヒッチコックの大(冷)戦時の心地よく小股の切れ上がった作品の趣き。そして、戦争前の記憶からの歪みと、仁義無きスクープ合戦と、正義を貫く姿勢と闘いの難しさ、人の情·拘りからの解放への苦しみ、まるで熊井啓映画の下地を揃えてる。
 しかし、そこで滑らし照れ外してゆくのが、川島なのか、あるいは松竹調なのか、グッとミート感や盛上がりは少ない。もっとひねてひねて、自分の心の闇や脱スケールにいつしか至るのが、本来の川島節とするなら、全ての描写が入口で止まっている。この時期『昨日と明日の間』のような凄い傑作もあるのでもしや、と期待したりもしたが、怪作の域には足を踏み入れず、比較的スマートにまとまっている、いや、纏まらないものをアレヨアレヨと裁ききったのを、怪と見るべきか。
【2021.11.30再見時の感想は、『顔役無用(男性No.1)』欄で。すっきり、3.4 位にアップしたい】
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 これで本日は終わりの筈が、口直しを求める。特にこれが好きだったというわけではないが、シネスコに入ってよりの渋谷作品は、どれも地に足が着かぬ飛翔の、またナチュラル度が半端ないので、数年ぶりに岡田=アイのヤクザ改め薬局営まんとする夫婦の作を。岡田自身は、演っててハマらず、巨匠の時代とのズレを感じてたようだが、喜重作品の反映画には共感できる生真面目過ぎる彼女には守備範囲外の、P·スタージェス的作品と言えるかもわからない。
 ヤクザorホームドラマというより、正対させず90°繋ぎメインで、半ばオフの視界持ちや無機質異空間占めも取り入れ、節度も持ち見事に流れさせてゆき、フォローや単独カメラ移動の横縦を絡めての、クールなフィルムノワールの味わい·スタイリッシュさ。しかし、そこでは役者たちのケレン多いオーバーな表現や、パターンをその侭なぞるだけの台詞が、浮いてゆく。しかし、だんだんと、角度も浅くアップはめ込みも多くフィットの具合の、大義や状況·常識を越えた自律性が高まってゆく、求められる立場と反射関心からの行動軌跡の境界が引けなくなってくる。思わず懸命の眼前の対象への奉仕·貢献、コミュニティや(生まれくるや侵しくる)生命へのいつしか自覚外の密着、ついには人間の係わりまで越えて猫が描写をリードしてゆく。大義や思想·社会的立場·家族愛·価値の優先順位、ことごとく逆転し、思わぬものを掴まえんとしてる自分にも気づく。ラストは松竹的で甘いにしても、他の晩年作の乾き·執着のスライドの標準をクリアしている。しかし、実は凄いのだが、時代を超えてしまったP·スタージェスと近く、一般的な賛美は受けづらくなる。一般的には、社会を扱っても了解済みのことをこってり·しっかり描く『天国と地獄』といった造型だけの凡庸な作品の方が受けるのだ。猫一匹の扱いにしても、道具扱いでもシンボルでもなく、ゆくゆく人間第一のヒューマニズムを観てる側にいつしか外させている程、大胆で慎重でデリケートだ。とりわけ本作にそぐわない岡田茉莉子より存在として重くなってくる。
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