そーた

パリ、テキサスのそーたのレビュー・感想・評価

パリ、テキサス(1984年製作の映画)
3.6
女と男と子

ある時友達にライ・クーダーのCDを借りました。

インドの打楽器タブラの超絶リズムに、シタールのような彼のスライドギターの美しい旋律が乗っかったとてもスリリングなアルバムでした。

このライ・クーダー、映画の音楽を結構手掛けているようです。
この映画も彼が音楽を担当している。

オープニングでライ・クーダーの曲が流れテキサスの荒野が広がる全景シーン。

このシーンが全てを語っていたんだ。
見終わってそう感じました。

失踪していた兄と、彼の息子を預かる
弟との再会が、子供の母親探しの旅へと発展するストーリー。

前半は兄弟の交流、
中盤は父と子の交流、
後半は母親探しと
話が進んでいきます。

父にとって子とは、
子にとって親とは、
母にとって子とは。

こんな事を考えてしまう映画でした。

僕の親父はもういないんだけれど、映画に出てくるお兄さんのヒゲが親父そっくりなの。

だから、親父を投影して見てしまって。

父と子の関係はまるで友達同士のようでした。
僕も親父とそんなだったのかも、なんて思いを馳せてしまいます。

二人が車道を挟んで歩くシーンが、なぜか微笑ましく、最後は少し涙してしまいました。

子にとって親とは。

愛を与えてくれる存在なのは確かですが、では血縁は必要ないのか。
それとも血の繋がりを本能が欲してしまうのか。

ちょっと、僕には分かりませんでした。

そして、終盤。
マジックミラー越しの体面シーン。

淡々と投げ掛けられる言葉に記憶や感情が呼び覚まされていく演出。

慟哭という表現が相応しく、
非常に胸を打ちました。

母親が子供のために存在するんじゃなくて、子供が母親のために存在している。

そのようにも感じてしまいます。

それじゃあ、父親は。

ラストシーンに納得できるもできないも、人それぞれでしょう。
何となく父親の孤独感を男の僕なりに感じてしまう終わり方でした。

荒野で始まり、ネオンで終わる。

それを自然に社会と捉え直してみれば、男の孤独感の行き着く先は何処へ。

男として生きていくのには気合いがいるのでしょうか。
そーた

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