きゅうげん

ファイト・クラブのきゅうげんのレビュー・感想・評価

ファイト・クラブ(1999年製作の映画)
4.1
大衆映画と総合芸術映画のいいとこ取り。
まだるっこしい物語・予想できるオチよりも、その裏に貼り付けられたメッセージを剥がし取るのが大事な映画。大量消費社会・男根・暴力 ……。

縦横スピーディーで目線みたいに180度動くカメラ、軽快なSEにポップな選曲、そして時々映る映画フィルムのようなブレ演出。どれも視聴者を小馬鹿にしつつ突き放したもの。
「大量消費社会? ぶっ壊してやる」と意気込む彼らの悶々とした胸中は暴力へと昇華され、実力行使へ加速します(そんな中、諸行無常的な厭世観に通じるものが垣間見えることも)。しかし、それを妨げるものとしてマーラが現れるのです。
タイラーはそんな彼女をセックスで"喜ばせ"、スマートな言葉で"魅了"します。すなわち男性的な力でもって女性を時に虜にし、時にぞんざいに扱うのです。
ここでは「語り手」の別人格としてのタイラーである事に留意する必要があります。タイラー自身が言うように、彼は「語り手」の理想であるのです。サブリミナルに挟み込まれる男性器、殴り合うマッチョな男たち。自身の中のすがりたくなるような、あるいは否定したくなるような男性優位主義イメージそのものです。そういった意味でもロジャー・イーバートが「マッチョ・ポルノ」と評したのも頷けます。
しかし破滅的なラストのなか、「語り手」はタイラーから自らを取り戻しマーラと一緒になるのが、言うに及ばすやっぱり本作で最も重要なポイントでしょう。

ブラピとエドワード・ノートンが仲良くなっていくところには萌えましたね。台所でプラピの身支度を整えてあげるノートンがほほえましくてかわいい。
ミレニアル世代・Z世代の「聖書」みたいに崇められている本作ですが、その魅力・その危うさひっくるめて愛すべき映画といえるでしょう。