ノットステア

ファイト・クラブのノットステアのレビュー・感想・評価

ファイト・クラブ(1999年製作の映画)
4.0
○Disney+紹介文
デヴィッド・フィンチャー監督、ブラッド・ピット、エドワード・ノートン共演の衝撃作。不満を抱えた男とカリスマ性を備えた友人が、情け容放なく素手で殴り合う闘いの場を組織する。



○雑誌『SCREEN 2016年2月号』
付録「勇気をくれる映画の名ゼリフ カレンダー」
「完璧なんか良くない 完璧を目指すのはやめろ それよりも進化しよう」
――「ファイト・クラブ」より
I say never be complete, I say stop being perfect, I say let... lets evolve.
良い家具、良い服に囲まれて完璧な生活を送りながらも心の充足を得られない会社員の僕(エドワード・ノートン)に、偶然知り合った謎の男タイラー(ブラッド・ピット)が言うセリフ。完璧より進化を求めること、それこそが真の充実感をもたらしてくれる。



○感想
この作品のテーマ
・豊かさ
・短い人生を生きろ
・自分が生きていると心から感じているか
→小説を読んだときのほうがこのテーマを感じた。

『ファイト・クラブ』がどんな話かも知らなかったのに気になっていた。ハヤカワ文庫の帯に担当編集の「この本を復刊したくて早川書房に入社しました」という言葉があり、気になって買っていた。それからしばらく積読状態だった。
最近、自分が映画を観てから原作を読むことが多いと感じていた。ある程度ストーリーを知らないと小説を読むことができなくなりそうだと思い始めた。ということで『ファイト・クラブ』はまず原作小説を読んでから観ることにした。
原作小説読むのしんどかった。読むのにだいぶ長い期間を要した。ずっと何がなんだかわからなかった。目が覚めたらどこどこ空港って何!?

以下、ネタバレあり













227ページ目まで読み進めてようやく納得できた。
9ページから14ページは時系列的には物語のラスト(p.290〜)に該当する。
なぜわけわからないか。それは主人公自身も227ページ目までわかっていなかったから。自分が二重人格であることに。主人公とタイラーは同一人物なんじゃないか、と読み始めたときは思った。しかし、映画のキャストだけ調べたところ、タイラーと主人公を別の俳優が演じているため別人だと思い込んでしまった。

映画『ファイト・クラブ』は原作に忠実だった。
1番好きなシーンは獣医を目指すレイモンド・ハッスルのところ。ここは小説のほうが感動した。
開始から4分10秒の「コピーのコピーのコピー」や、開始から6分20秒の「苦しみだ」というセリフのあたりの工夫も面白かった。ちょうどいいタイミングで止めて確認しないとわからないけど、映写技師がフィルムの切り替え時にイタズラしたかのように、タイラー・ダーデンの姿が一瞬映る。

あ、そういえば『ゴッドファーザー』は映画を観てから原作小説を読んだけど、原作小説のほうがわかりやすかったな。



○映画の印象的なシーン
開始から77分54秒。
上司に暴力を振るわれてるふりをする主人公。「タイラーとのファイトを思い出してた」



○原作小説の印象的なシーンやセリフ

p.58
ぼくが全人生を費やしてそろえた物たち。
ラッカー仕上げを施したメンテフリーのカリックスの補助テーブル。
ステッグの入れ子式テーブル。
家具を購入する。これで死ぬまで新しいソファが必要になることはないはずだと自分に言い聞かせる。思い切って買っちまえよ、二、三年は、少なくともソファ問題に頭を悩ませることなく暮らせるぞ。次は理想の皿一式。次は完璧なベッド。カーテン。ラグ。
そのころには素敵な巣のなかで身動きが取れなくなっている。かつて所有していたものに、自分が所有されるようになる。


p.151
ぼくが互助グループをいたく気に入っている理由は、相手が死を目前にしていると思うと、人はその相手に全神経を注ぐからだ。
これきり会えないかもしれないとなれば、人はその相手とちゃんと向き合う。金の心配やラジオの歌や乱れた髪はきれいさっぱり消える。
全神経を相手に注ぐ。
自分がしゃべる順番が回ってくるのを待つのではなく、相手の話をちゃんと聞く。
そしていざしゃべる順番が回ってきたとき、作った話はしない。言葉を交わしながら、二人のあいだに何かが築かれ、その会話を通じて双方が変化を経験する。


pp.203-204
メカニックの話では、ファイト・クラブ新規則はもう一つあり、ファイト・クラブは永久に無料である、だ。入るのに金は取らない。メカニックは運転席側の窓を開け、対向車とキャデラックの脇腹に吹きつける夜風に向けて声を張り上げる。「欲しいのはおまえだ、 おまえの金じゃない」
メカニックは窓の外に怒鳴る。「ファイト・クラブでは、おまえは銀行預金の額ではない。仕事ではない。家族ではない。自分で思いこもうとしている人物像ではない」
メカニックは風に向かって怒鳴る。「名前ではない」
バックシートのスペース・モンキーの一人が応じる。「悩みではない」
メカニックが怒鳴る。「悩みではない」
スペース・モンキーが叫ぶ。「年齢ではない」
メカニックが怒鳴る。「年齢ではない」


p.201,202,210
まったく関心を持たれないよりも、罪を犯して神の注意を引くほうがましだというのがタイラーの持論。神の憎悪は神の無関心よりまし。
神の最大の敵となるか、無になるかの二者択一だとしたら、さあ、どちらを選ぶ?
タイラー・ダーデンによれば、ぼくらは歴史に名を残す偉業を成し遂げる優秀な長子ではなく、特別にかわいがられる末っ子でもない、神の真ん中の子供だ。
神の関心を得られないなら、天罰も贖罪も期待できない。
どちらがより忌まわしいだろう。地獄か、無か。
赦されるには、罪を見とがめられ罰を下されるしかない。
低く落ちれば落ちるほど、高く飛べる。遠くへ逃げれば逃げるほど、神は手もとに呼び戻そうとする。
ぼくは無だ。無にも満たない。
メカニックが運転するキャデラック暴走。対向車線を走る。トラックとぶつかる。
メカニックがぼくを見下ろす。「ハッピー・バースデー」


pp.213-214
若く強い男や女がいる。彼らは何かに人生を捧げたいと望んでいる。企業広告は、本当は必要のない自動車や衣服をむやみに欲しがらせた。人は何世代にもわたり、好きでもない仕事に就いて働いてきた。本当は必要のない物品を買うためだ。
我々の世代には大戦も大不況もない。しかし、現実にはある。我々は魂の大戦のさなかにある。文化に対し、革命を挑んでいる。我々の生活そのものが不況だ。我々は精神的大恐慌のただなかにいる。
男や女を奴隷化することによって彼らに自由を教え、怯えさせることによって勇気を教えなくてはならない。
ナポレオンは、自分が訓練すれば、ちっぽけな勲章のために命を投げ出す軍人を作ることができると自慢した。
想像するがいい。我々がストライキを宣言し、世界の富の再配分が完了するまで、すべての人々が労働を拒否する日を。
想像するがいい。ロックフェラーセンターの廃墟を囲む湿り気の多い谷間の森でヘラジカを狩る日を。


p.216-222
十二枚の運転免許証をタイラーに提出しなければならない。それが十二の生け贄を捧げたことを証明する。
ぼくは弱冠二十三歳のレイモンド・ハッセルのこめかみに銃を押し当てる。財布から免許証を抜き取る。
いいか、レイモンド・K・K・K・ハッセル君、きみは今夜ここで死ぬ。一瞬で死ぬか、一時間かけて死ぬか、選ぶのはきみだ。だからぼくに嘘をつけ。ぱっと頭に浮かんだことを口に出せ。何でもいいからでっち上げるんだ。何を言おうとぼくはかまわない。ぼくは銃を持っている。
ここでようやくきみはぼくの言葉に意識を向け、きみの頭のなかに描かれた悲劇から生還する道をたどり始めた。
穴埋め問題だ。レイモンド・ハッセルは大人になったら何になりたい?
家に帰りたい、ときみは言った。とにかく家に帰りたい、お願いです。
だろうな、とぼくは言った。じゃあ家に帰ったとして、この先の人生をどう過ごしたい?やりたいことが何でもやれると仮定して。
何でもいいからでっちあげろ。
きみはわからないと言った。
そうか、そういうことならこの場でおさらばだ、とぼくは言った。さあ、顔をあっちに向けろ。
死のプロセス発動まで残り十秒、九秒、八秒。
獣医ときみは言った。獣医になりたい、獣医に。
動物の医者か。それには学校に行かなくちゃ。
うんざりするほど学校に行かなくちゃ、ときみは言った。
学校へ行ってがむしゃらに勉強するか、あるいは死ぬか。レイモンド・ハッセルくん、自分で選ぶんだ。ぼくは財布をきみのジーンズのポケットに押しこんだ。そうか、本当は動物の医者になりたかったわけだな。涙に濡れた銃の鼻面を片側の頬から離し、反対の頬に押し当てた。昔からの夢はそれなんだな、獣医。そうなんだな、ドクター・レイモンド・K・K・K・K・ハッセル?
そうだ。
ふざけてないな?
違う、違う、いや、だから、本当だ、ふざけてなんかない。そうだ。
よし、とぼくは言った。
それなら、とぼくは言った。学生に戻れ。明日の朝、目が覚めたら、学生に戻る道を探すんだ。
ぼくは銃の濡れた先端を両の頬に順番に押し当て、次にきみの顎に当て、次にきみの額に押しつけたあと、そのままにした。きみはいまここで死んだものと思え、とぼくは言った。
ぼくはきみの運転免許証を持っている。
きみの名前を知っている。きみの住所を知っている。ぼくはきみの運転免許証を処分したりしない。きみの様子を確認させてもらうぞ、ミスター・レイモンド・K・ハッセル。三ヵ月後、半年後、一年後。もし学校に戻って獣医への道を歩んでいなかったら、きみは死ぬことになる。
きみは無言だった。
さあ、行けよ、きみの短い人生を生きろ。だが、いいか、ぼくが監視してることを忘れるんじゃないぞ、レイモンド・ハッセルくん。チーズを買ってテレビの前で暮らすのに最低限必要な金を稼ぐためだけにつまらない仕事をしてるきみを目にするくらいなら、殺すよ。
ぼくはこれで帰る。こっちを振り返るな。
これがタイラーがぼくに望んだことだ。
ぼくの口から聞こえてくるのはタイラーの言葉だ。
ぼくはタイラーの口です。
ぼくはタイラーの両手です。
騒乱プロジェクトの全員がタイラー・ダーデンの一部であり、その逆もまた真なりだ。
レイモンド・K・K・ハッセルくん、今日の夕食はこれまでに食べた食事のどれよりも美味いだろう。そして明日は、きみのこれまでの人生でもっとも美しい一日になるだろう。

pp.237-239
ファイト・クラブを潰す気のシアトル市警本部長を強襲。
タイラー「ファイト・クラブ以外、おれたちに失うものはない」
だが本部長、あんたはすべて持っている。
おれたちに残されているのは世界の糞とくずだけだ。
「忘れるなよ」とタイラーは言った。「あんた(シアトル市警本部長)が踏みつけようとしてる人間は、我々は、おまえが依存するまさにその相手なんだ。我々は、おまえの汚れ物を洗い、食事を作り、給仕をする。おまえのベッドを整える。睡眠中のおまえを警護する。救急車を運転する。電話をつなぐ。我々はコックでタクシー運転手で、おまえのことなら何でも承知している。おまえの保険申請やクレジットカードの支払いを処理している。おまえの生活を隅から隅まで支配している。
おれたちは、テレビに育てられ、いつか百万長者や映画スターやロックスターになれると教えこまれた、歴史の真ん中の子供だ。だが、現実にはそうはなれない。そして我々はその現実をようやく悟ろうとしている」とタイラーは言った。「だからおれたちを挑発するな」
本部長は激しくしゃくり上げ、スペース・モンキーはしかたなくエーテルの布を強く押しつけて完全に失神させた。
別のチームが服を着せ、本部長と愛犬を自宅に送り届けた。この先、秘密が守られるかどうかは本部長しだいだ。ぼくらはこれ以上ファイト・クラブの取り締まりは行なわれないと確信している。
敬愛なる閣下は、縮み上がってはいるが、ちゃんとついたまま帰宅した。
「この種のちょっとした宿題をこなすたびに」とタイラーは言う。「何も失うもののないファイト・クラブの男たちは、騒乱プロジェクトにまた少し貢献することになる」


著者あとがき
登場人物が一つのシーンから次へと直線的に進んでいくのではなく、カット、カット、カット、カメラが切り替わるように物語を進行させてみたかった。映画『市民ケーン』のように進行させる物語を書きたかった。

『華麗なるギャツビー』を少しだけ現代風にしたものにすぎない。典型的なロマンス小説。そこに現代風のアレンジを加えた。

ボリビアの貧しい村々には、ティンクという殴り合う祭りがある。金銭的に貧しかろうと教育や機会に恵まれなかろうと誰もが楽しみにしてきた祭り。
殴り合って疲れ果てた男女は、教会へ行く。
そして結婚する。
疲れるのと豊かなのとは違う。それでも多くの場合、その二つは見分けがつかないほどそっくりだ。


アメリカ文学研究者・翻訳家都甲幸治「自分の人生を取り戻せ――『ファイト・クラブ』解説」
・『ファイト・クラブ』で作者パラニュークが突き付ける問い…「最近、君は自分が生きていると心から感じているか。」
周りの人たちの言うことを聞いて育ち、どうにかありついた仕事に就き、ようやく稼いだ金で物を買う。こうした日々の連続の中で、そもそも自分が何をしたかったのか、何が欲しかったのか、何をしているときが楽しいのか、そして誰を愛しているのかまでがぼんやりとしてくる。そんなとき僕らは、いったい誰の人生を生きているのだろうか。
パラニュークは言う。「我々は良い人間になるように育てられてきました。だからこそ、僕らの子ども時代のほとんどは周囲の期待に応えることばかりに費やされてしまいます。両親や教師やコーチの期待に応え、そして上司の期待に応える。こうして我々はどうして生きていくかを知るために、自分の外側ばかり見ているんです」(DVD Journal インタビュー)。そんな人の顔色を見るだけの生活が楽しいわけはない。
ルールを自分で作ること。そして自分の人生の主役になること。確かに第一歩は恐いだろう。でもそれを踏み出したとき、君は今まで感じたことのない喜びの中で生きることができる。パラニュークは続けて語る。「人生のある一点を過ぎて、ルールに従うんじゃなく、自分でルールを作れるようになったとき、そしてまた、他のみんなの期待に応えるんじゃなく、自分がどうなりたいかを自分で決めるようになれれば、すごく楽しくなるはずです」(同前)。恐怖を乗り越えて、自分の頭で考え始め、他人に奪われていた人生を自分の手の中に取り戻す。『ファイト・クラブ』は君に、そうしたきっかけを与えるために書かれている。

映画版(一九九九年)やその後に発売されたDVD版が世界で大ヒットして、『ファイト・クラブ』はあっと言う間にカルト的な人気作品となる。
けれども、そのせいで大きな誤解も生じた。『ファイト・クラブ』で重要なのは、暴力でも派手なスペクタクルでもない。そしてまた、『ファイト・クラブ』はただの、人気映画の原作でもない。『ファイト・クラブ』とは、生きることの意味とは何か、人生で大切なものとは何かを正面から考える、ひたすら優れているだけの、アメリカ文学の新しい古典だ。

死を前にしたとき、日頃社会で大切だと思われていることの多くは価値を失う。金があっても、物があっても、地位も名声も、もはや何の意味もない。逆に、人との嘘のない繋がりや温かみ、あるいはちょっとした思いやりが、いつもより大きな意味を持って迫ってくる。パラニュークの魅力とはこうした、社会から一歩距離を取って物事を捉え直す視線だろう。そしてまた、不要な物に囲まれ、孤独に苛まれている僕らの感情を的確に掴んで、それを剥き出しに表現する勇気だろう。パラニューク自身ゲイであり、フレイトライナー時代から二十年以上連れ添った男性と住んでいることを公言している。貧しく、社会の片隅に追いやられた人々への共感が彼の文学の根底にはあるのだ。

『ファイト・クラブ』の主人公は人生に飽き飽きしている。仕事に恵まれ、おしゃれなマンションで独身生活を楽しんでいるものの、こんな生活を自分で望んでいたのかどうかさえわからない。やがて彼は極度の不眠に陥る。医者に行っても、どんなに薬を飲んでも、まったく症状は改善しない。そこで彼が見つけたのが難病患者の互助グループだった。自分も患者だと嘘をついた彼は、参加者と苦しみを分かち合い、感情を吐き出し、抱き合って泣く。互助グループに参加した日だけは彼は安らかに眠れた。しかし同じく患者を騙る女性マーラが出現したおかげで、彼はこの喜びを奪われてしまう。
だが主人公はタイラーとの偶然の出会いを通じて、誰にもじゃまされない、自分たちだけの互助グループを作ることになる。それがファイト・クラブだ。男たちは素手でひたすら殴り合い、傷つき、自己を破壊し、時には死に近付くことで強烈な生の感覚を味わう。「ファイト・クラブを知ったあとでは、テレビのフットボール中継など、最高のセックスを楽しめばいいのにわざわざポルノ映画を鑑賞するみたいなものだ」(88頁)。この喜びを知った主人公はやがて、現実社会のルールを無視し始める。彼にとっては仕事も、家も、何もかもが無価値な、過去の遺物でしかない。

主人公が生きているのは、金が優先の堕落した世の中だ。彼は自動車事故の調査員で、全米を飛行機で飛び回り、自社の車の欠陥を探している。もし欠陥が見つかっても、リコ ールはすぐには行われない。リコールの費用より死者たちの遺族に払う慰謝料が安ければ、会社は欠陥を握りつぶす。リコールを実施するのは、そうしたほうが安上がりな場合だけだ。あるのは経済の法則だけで、死んだ者たちへの尊敬も倫理も何もない。
これも仕事だと割り切って手に入れた金で、主人公はきれいな家に住む。それでも心は空虚なままだ。彼は思う。「北欧家具からぼくを救い出してくれ。気の利いたアートからぼくを救い出してくれ」(61頁)。だからこそ、おそらくタイラーが主人公のマンションを爆破したとき、彼はとてつもない解放感を感じる。今までは、十分な量の金を稼ぎ、世間で価値が高いと言われている物を手に入れることが成功だと彼は教えられてきた。けれどもそれは、欲しくもない物に、逆に所有されていただけだ。こうして主人公は、物への崇拝から離脱する。
けれども主人公の心には落とし穴があった。社会の価値観の外には出たものの、誰かに従いたいという気持ちを彼は克服できない。だから鋭い英知に満ちたタイラーと住み始め、彼の言葉に従いながら、ファイト・クラブの拡大に加わる。やがて変質したファイト・ク ラブが会員の自由を奪うことに主人公が気づいてももう遅い。もはや主人公にも、ひょっ としたらタイラー本人にも止められないほどの速度で組織は暴走するだけだ。
パラニュークは本書でどうして暴力や混乱を描いたのか。彼は言う。「無秩序で破滅的なものを前にしても、我々は恐れず、むしろ受け入れなければなりません。こうしたものを通じてしか我々は救われないし、変われないのです」(DVD Talk インタビュー)。既成のルールで縛られた都市から荒野に出て行き、身につけた知識を総動員して、体や頭を動かして生きてみる。そうやって、すべて人任せでやってきた自分の人生の主人公になる。こうした考え方は、僕にはとてもアメリカ的なものに思える。かつて十九世紀にソローは大自然の中、たった独りで二年間を自給自足で過ごし、その結果を『森の生活』(一八五四年)にまとめた。貧血した文明を克服したいという感情は、アメリカ文化の遺伝子に明確に書き込まれている。
僕が『ファイト・クラブ』で好きなのは、終夜営業の商店でバイトを終えた見ず知らずの青年を主人公が銃で脅すシーンだ。主人公は青年に銃口を突き付け、お前の夢は何かと訊ねる。本当は獣医になりたかった、と青年が答えると、主人公は言う。「学校へ行ってがむしゃらに勉強するか、あるいは死ぬか。レイモンド・ハッセルくん、自分で選ぶんだ」(20頁)。そしてもし今後、君が夢に向かってがんばっていないとわかれば確実に殺す、と宣言する。おそらくこのあと青年は長年の夢をかなえることだろう。かつて哲学者の戸田山和久は、名著『論文の教室』(NHK出版)で、この場面でのやりとりを「啓蒙」と呼んだ。そして僕も戸田山に完全に同意する。相手の可能性を信じ、それをはっきりと口に出す教師。今日が命の終る日だと思い、一秒毎に全力を尽くす学生。もちろん『ファイト・クラブ』では、この真に教育的な関係は滑稽なほど極端に誇張されている。だが、遅かれ早かれ死ぬことが確定している我々は、日々、神に銃口を突き付けられているのと同じではないか。自らが死すべき存在であることを知り、常に自らの無知を意識すること。『ファイト・クラブ』で語られる知恵と、ブッダやソクラテスの言葉は案外近い。