都部

気狂いピエロの都部のレビュー・感想・評価

気狂いピエロ(1965年製作の映画)
3.7
映画を映画たらしめる既成概念からの逃避と作劇上の語り部の逃避行が同期することで語られる本作は、監督当人の見識の深淵から掘り出される即興演出による弛まぬ斬新性で形作られた名作である。
引用の洪水が物語を必要性の有無を差し置いて複雑化させるプロットは衒学的な側面を否めず洒落臭いが、美的に統一された色彩設計が織り成す映像作品としての画の強固さは、その無軌道な走りが単なる出鱈目ではないと説き伏せるだけの力があると言える。

私が好きなシーン&本作の特に象徴的なシークエンスとして、序盤 二人がドライブをしていると『車は決められたとおりにしか走らない(意訳)』と片方がボヤく。それを受けて車は急カーブをして、道が存在するわけもない海へと突っ込んでいき、車は呆気なく沈んでいく──『レールを走るだけの人生』という有名な喩えがあるけれど、これはそれと同様のもので、物語の定められた形式美を嬉々として捨て去ることで語り部達は自由に物語を辿り始める。その自由もまた束の間の物であるのだけれど、この安定から逃避し続ける作風は非常に通りが良くて好ましい。

とはいえそんな小難しいだけの映画かといえばそんなこともなく、安定の人生を憂いた男が魅せられた女の理想の為に破天荒さを貫こうとするも失敗するという、実にシンプルな非恋譚だ。

作中の男女の振る舞いが、個人としての機微を欠いた当時の男性観/女性観そのままの物であるのも、これは戯画的な物語であると考えると呑み込みやすく、だから本作はジャンルとしてはラブコメディに位置するように思う。一見すると呆気に取られる結末も恋の後始末と思えば可愛いもので、本作で重要な役割を果たす『青』と『赤』の同調はある種 恋の成就のようで微笑ましい。

その他 音の扱い方やカメラワークの巧みさは言うまでもなく、総合的大衆芸術である映画としての調和的な美を感じる本作の魅力を、しかしすべて把握出来たかと言われると存外怪しいもので、名作であることはよく分かったと曖昧な言い方になってしまう(好きか嫌いかなら好き)。
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