記録用
ラース・フォン・トリアー監督作品。
機会の土地アメリカ三部作の2作目。
トリアー作品では珍しいドッグウィルの完全な続編。
ドッグウィルの話の後主人公のグレースはアメリカ南部へ父親達と移動していた。
ある大農場の前で奴隷制度は無くなっているのにも関わらずそこの女主人は鞭打ちの刑を使用人にしていた。
グレースたちが対抗し女主人は息絶える。
主人を失った農園の使用人たちに対し民主的な共同体を作り上げることを考えたグレースだが、、、、、。
ドッグウィルがなかなか過酷な現場だったために主要キャストが変更。
グレースの父親役がその後も起用され続けるウィレム・デフォーに変更。
今回もドッグウィルのレビューに書いたときと同様に暗いスタジオで白い線が描かれただけのセットに少し上下のある建物が加わり撮影が行われる。
「アメリカ」という言葉が使われてはいるがトリアーの想像上のアメリカを具現化した寓話的世界観は健在。
今回は民主主義、差別階級、権力に対する「偽善」に鋭く切り込む。
グレースはまず「裕福な白人の偽善」の象徴として描かれている。
黒人たちを圧政する主人から解放し自分が自由を与え民主主義を与えるという冒頭から前作ドッグウィルで父親から指摘されていた傲慢さが垣間見える。
そして黒人一人一人を個人として見てはいなく肌が黒く髪が縮れていて区別できない。
残された一部の白人に対して罰として肌を黒く塗る罰を与えたり肌が黒い事自体が罪であるような言動や行動をあっけらかんと繰り返す。
グレース本人に悪意の意識はないのがタチが悪くむしろ「善」であると思い込んでいる。
裕福であったり名誉、権力を持つくことの感覚が麻痺し自分たちが無意識に自分たちよりも貧しさや知性の低い人間に対し神の如く恩寵を与えられると錯覚する「差別意識」と「偽善」は表裏一体として映画内で登場する。
物語のアイテムとして前女主人の使用人のグループ分け帳が人間へのラベリングという差別を可視化したパンドラの箱として登場する。
結局それが最終的に引き金となり自由をもたらせてあげようとしても自分の思い通りにならない農園の黒人に怒りが爆発して父親の部下という「権力」を振りかざし冒頭の女主人のように鞭打ちを始める始末。
しかし女主人のように農園のことを思った上での秩序のある中での「罰」ではなく私怨に近い「暴力」であった。
そして民主主義を教え込もうとしたのだがグレースのいう「民主主義」はただ単に「多数決」でありマジョリティがマイノリティを抑え込むための装置でしかないものを教育してしまいそれも最後に自分へ降りかかる。
「偽善」を暴き出すということを触媒として「アメリカの建前」に対して化学反応を見ようとした今作は興行こそ振るわなかったが当時から20年後のいまを予見しているのような作品であると興味深かった。
実はアメリカ三部作は打ち切りでその後トリアー脚本で別の監督作品の「ディアウェンディ」がアメリカを舞台として銃社会へ切り込むテーマなので幻の「ワシントン」と言われる作品はもしかしたら銃社会をテーマとした作品だったのかもしれない。