レインウォッチャー

イーストウィックの魔女たちのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

3.5
『魔女たち』、とあるものの、主人公の3人は(少なくとも初めは)平凡な女たちだ。毎週集まっては仕事や家事や男のグチを言って過ごしてる。
そんな彼女らの町に、一人の怪しい男が現れる。誰もが名前を忘れてしまうその男は、次々と彼女らを篭絡し…

さてこの男はJ・ニコルソンが演じているのだから説明無用で悪魔なわけだけれど、女たちは彼の魔力にアテられ、開放され、やがては反発することによって《魔女》に目覚めてゆく。
要するに、これはたいそうファンタジックでおばかでえっちなコメディでありつつ、「女を魔女にしてきたのは男か?」あるいは「女は生来の魔女なのか?」という、男女の終わらぬ平行線論争を巧妙におちょくった戯画なのだ。

都合、《魔女》には黒と白のアンビバレンスが託されることになる。前者はたとえば魔女狩りのイメージにあるように、女であることそれだけでレッテルを貼られ、迫害・抑圧されてきた存在としての魔女。そして後者は才能と人生を自らの手でハンドリングする、自立してその立場を「選び取った」パワフルな存在としての魔女だ。

今作の主人公たちは、悪魔=男との交流&バトルを経て依存→独立、黒→白への前向きな転換を果たした、と見ることができる。しかし同時にこれこそ「女の気まぐれ」、つまり時と場合によって黒白両方を演じ分けては男を都合よく振り回す魔性なのだ、と取ることもできるだろう。

そちらサイドの視点を裏打ちするのは当然デビルニコルソン(良い語呂)だ。彼は悲しいくらい《男》である。権力と財力と虚勢とセックスの煮こごり。

彼が女たちに近づくとき、ハッタリや駆け引きをカマしながらも基本的には彼女らを誉めそやして、日常の不満を引き出して解消し、魔法のゲームやパーティでもてなす。女たちもそれを十分愉しむのだけれど、彼が「彼女たちのために」やった(この掛け違えのやらかしは現実でも死ぬほどあるやつ)ある行いが度を越してしまったことで、形勢が変わってくる。
すぐさま女たちは共謀し、彼を拒絶する。そこからは泥沼となり、デビルソン(良い略語)は「女は天災だ!」とか喚き散らしながら、ついには魔力も富も(ついでに遺伝子さえも)女たちに奪われてしまうのだ。

うーん、やっぱりわたしにはこのデビルソン、ただのクソ野郎というよりは滑稽で哀れに思えて仕方がないのだった。
彼には男の成功と失敗の学ばない歴史が凝縮されているようだし、ハデに見えて実は地道なやり口は涙を誘う。今の世ならきっとモテ術を語るYouTuberとかやってるに違いない。で、それでも積み上げていったはずのデートで撃沈したりするのだ。…おつかれ。

彼は女たちを罵りながらも、「俺は優しく構ってほしいだけなんだ」と叫ぶ。きっと、女性たちからすれば歴史的なレベルで「時すでに遅し」に尽きるのだろう。でもさ、男がそれを言えたタイミングっていつだったんだろうね。

この映画が作られてから40年弱、フェミニズムの瀬も何度か変わってなお、たぶんそんな答えすらまだ見つけられていないんじゃあないだろうか。姿と戦場を変えて、今日も悪魔と魔女は戦い続けているっぽいから。

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音楽は俺たちのジョン・ウィリアムズ、一瞬で耳をかすめ取っていくなあ。