ニューランド

お染久松 そよ風日傘のニューランドのレビュー・感想・評価

お染久松 そよ風日傘(1959年製作の映画)
4.1
 比較的初期の、沢島作品。展開でいうとあまり納得出来ない所も引っかかったままだが、若い活力·奔流が一気、観る者を新たな世界へ連れゆく。’50年代後半、プレ·ヌーヴェル・ヴァーグとも言うべき新しい表現·世界の映画が日本でも現れた。かなりの数で、必ずしも苦痛と解放を対比的に訴える作品ばかりでは、なかった。日本人の根っこを深く掘り起こし、突き放して批評力も強かった今村·増村の横綱を直下で追ってたのは、舛田·喜八·中平らを抑え、沢島だったろうか。
 ひばりの同い年の里見と組んでの、ひときわ伸び伸び遠慮なく、ハッキリしたドラマ上の線引もなく、映画会社東映〜歌舞伎の枠と場〜現代風ミュージカル時代劇(そもそも上方の話なに、和製英語が飛び交い、上方弁の者と江戸弁の者が家族の内でも平気で併存する)の、行き来組立が少しだけ、しかし鮮やかなメリハリを与える。必ずしもこの期の最良の作ではないが、形の線が引かれない分、素での魅力が、ストレートに伸びる侭を記し説明なく刺さってくる。内容自体、旗本の宝刀の行方の流れやその価値の移り変わりの契機、ひばり二役の劇への直接的効果の無さ、主体的に身を引くに決める在郷の許嫁の娘の側のしおらしさ、等展開が活きてないのではの所があり、気にしてもいいのだが正直どうでもいい流れの力かある。そもそも(芸者請出しの金作る為に)預けられた恋のライバルの旗本の宝刀を、油屋の本店と一体懇意の質屋から持ち出して·家のピンチを招いた、家業放りっぱなし恋と遊びしか考えがなかったダメ男の(油屋跡取りの)兄貴が、隙間ない仕事向きへと生き方を改めた時に、妹に恋を諦める従順を破る意気を与えるのだ。それは、妹=お染が、リアリストの使用人=久松に、自分の側のロマンチストの部分を目覚めさせ、不可能でしかなかった2人の恋物語がスタートするに、似てはいる(その時も相手の反応の恋の有無を、まだ遊び人期の兄に聞いてた勝ち気だけで恋のイロハ知らぬ妹)。また、最期に久松の妹(母の連れ子で、血が繋がらないので、普通に許嫁とされ、彼女の方は真剣だった)が、心と反対に涙を隠して、「兄妹として育ち、基より恋などは」と引下がる無念の、本音の叫びは、歌舞伎舞台の枠上に戻った所で、作劇を越えて発せられる。使用人(の側の父)も使え(させ)た由縁と矜持を持ち、皆·置かれた立場や安っぽい情にに従う人間ではない。宝刀を返せず、家のピンチ(金を用立てる·前から不穏恋慕の商人の嫁にお染を差出し)に冷静に使用人らも解決·不本意策に賛同し、お染もまた当然それら·信賴する者らの賢明さには従わない。作劇以上に、人の、時代を越えた、前への活力で動き続ける、現れの魅せ続け。いわれなき暴力·理不尽に立場や位置を越えて、結集対抗も当然で、相手も無理強いには執着できない社会性。恋敵を沈め、意中の女を罠に嵌めてまで手に入れんとする、金と権威で上位に立つ者らも、負の形で、正の形を無力にして、そこで剥き出しの向かいくる力の顕な美しさ·力を引き出す。
 横フォローから、(俯瞰めの)縦移動を重ねる度合いの増してくるストレートさ(切返しと絡めての、アップらの固定も入っての抜差しならなさ)·力強さを、一般シーンでは傾きめのカットが増え、突っ走り感の隙間が埋められ·ヌケを補完してく感も受けてく。それらの移動の主体者に対し、踊る群衆らも自らの位置·価値を譲らない、作劇以上の存在性。アップの表情と口調がしっかり、与えられた位置を破って貼られゆく。
ニューランド

ニューランド