ワンダフルデイズモーニング

東京兄妹のワンダフルデイズモーニングのレビュー・感想・評価

東京兄妹(1995年製作の映画)
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 市川準は"時代の変化もしくは経年に伴って風化し消え去ろうとしているもの"にかなり強い執着があるというのが私の印象で、だけどそこにノスタルジーを見出そうとしているわけではないというところに苛烈さを感じる。
ノスタルジーというのはかつてはあったが今はないものを懐かしむ行為であって、この「東京兄妹」しかり「トキワ荘の青春」しかり、現代においてこれらの作品を観ている我々が郷愁を感じるのは、描かれている光景がすでに失われ終えた後の時点から鑑賞しているからだ。
市川準が彼の作品で物語っているのは、そういう未来から眺める"過去"ではなくてあくまで消え去りはじめ遠くない未来に失われるであろう光景の現在進行形で、つまり映画の中でゆっくりと時間をかけて消滅の兆しだけを見つめている。市川準はその変容を肯定も否定もしない。決して歩み寄らず、だけど突き放したりはしないで、ずっと同じ場所からひたすらに見つめる。手を差し伸べたりはしないけれど、その場所からいなくなったりもしない。そして彼の眼差しはキャメラを通して観客に強いられることになる。安易な同情も投げやりな跳躍もさせず、観客にただ映画を観させる。このストイックさ……。なんて気が長いんだ。

 日本家屋(の室内)言い換えれば古くさい様式の家父長家庭の崩壊をどう撮るかということにおいて、小津に倣うのはあまりにもストレートではあるけれど小津に倣っても小津にはならないのが逆説的に小津の強靭な小津性だろうから、市川準が自分も小津になろうとしてないのはあまりにも市川準印のCMすぎるインサート連打で良くも悪くも開き直りが見られる。アングルとサイズと照明がCMのそれでしかない。冒頭からして豆腐のCM始まったのかと思ったぜ。それは繰り返すが良くも悪くもだと思う。これは映画であってCMではないが、この映画は市川準が作ったものだから。
 インサートで言えば一箇所ものすごくグッときたのは、ラストシーケンスの街並みインサート連打の中で、かなり早い段階において洋子が写真屋受付に座っているショットが挿入される。ヒロインの姿が街並みのひとつとして扱われている。あれはかなりオオーッとか思った。

 芝居シーンはa)マルチアングル、もしくはb)ヒキ→ヨリ/ヨリ→ヒキという二種類のコンテで基本的に進行していくのだが、それ自体はたいして面白くはない。
けれども、インサート連打で「あぁなんか結局良い話というか、ふわっと終わるのか。あーこれがラストシーンだろうな。あと1、2カット入って終わりよね」とぼんやり油断したところにあるラストシーン。3カットだと思うが、時間にして20秒程度の、かなり地味であるし、かつ、あれも小津じゃんと言われればそれまでのようなオチの付け方のはずだが、私はかなり戦慄を覚えた。この映画に起きるどんな出来事より身を裂かれるような悲痛さを感じた。あのラストは何もかも凄い。
鑑みればあのラストこそが健やかなのであり、またなりゆきとしては当然なのだ。
だからあのラストのためにそれまでの九〇分があったとまで言える。
しかし、しかし……キツい。。。体感として痛い。。