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支那の夜 蘇州夜曲 後篇のニューランドのレビュー・感想・評価

支那の夜 蘇州夜曲 後篇(1940年製作の映画)
4.2
☑️『支那の夜』及び『野戦軍楽隊』▶️▶️
本当に昔観たきりで真価を見誤ったろう作品と、16ミリまんまの良くない画質のを見てて、同じべースとしても『河内山~』 の時のように35化して観やすくなってるのでは? の、二本の日中戦争時の作品を再見する。たまたま、日本の誇る?二大天才の作たち。
長谷川一夫=李香蘭の半プロパガンダ二作目の東宝=満映大作。この監督クレジットの若くして亡くなった作家の作品は、数本しか観ていないが、その2本目に観た作品から、これはヴィゴ·山中に匹敵する映画史上最大の天才と確信した。只、1本目を観たのは40年以上前で、メロドラマ·戦前反動作と決めつけた記憶があり(当時は、この種のものだと『爆音』等の田坂しか見えていなかった)、見直したいとずっと思ってきたが、TVではやってたが、スクリーンの上映にはタイミングが合わずにいた。
そして、今回やっと再見できた。国策云々ではなくて、隣国感情、スパイ活動とアクション、戦禍と犠牲、国を越えた恋愛と母国·失われた故郷への情感、(格闘拡大·凸凹コンビ·仕切り女将)コメディやミュージカル感覚、全てがハイセンスで同時に奢りがなく大袈裟さを退ける、T·クルーズの『M·I』の何でもありの可能性と、『慕情』『山椒太夫』の澄んだ情感が合体、それ以上のもの。スタッフ·キャストやセット·ロケのバジェットも凄いが、その配置·バランス·動き·抜き方を差配し抜いてる演出がやはり圧倒的だ。しかも、それらは目立たず、大作では見過ごされがちの、対象に沿い活かす僅かの角度変の呼吸が素晴らしく、作品を浮いた大作から引き下げて身近に我々の映画にしている。「中国人の目隠しされた愛国心に対し、日本人を奢らず如何に辛抱できるか、こころを開けるか」「私も兄を中国人に殺された。しかし、憎むことはない。より大きなことの為に身を捧げたのだと理解してるから」「日本人は与えられた任務に、取り乱さず当たり前に遂行する」「必ず戻って来る約束がある」言い方によっては、歯の浮くような台詞も、ある状況ではあり得る多面性まで窺わせる感。上海のホテルのロビーだけでなく、階段·外廻りの美しさ·立体感、それを活かす何気の縦の図、いつしか少しずつ近づいてるカメラワーク、退きの俯瞰+90°の角度変、主役から脇まで完全に存在と魅力を全うしてる駒の指し方、音楽の伸びやかさ、表情の極め方が素晴らしく、一方ロケの果てなく優雅で、動的な人·瓦解建物·船の現れと動きと、閑かな底の存在の広さ無限の美しさも素晴らしく、カット内·カットバックで透明な緊張感が生まれてゆく。スパイ感や炎も包むアクションもいい愛敬。2大スターの最初から決まりきった内容がこれ程ソクソクと来るとは。釜足の死と実母の現実的無神経が、山口の死への途を導いて磁力となってゆくのを、大向うも、謙虚に焦らしに焦らせて長谷川が掬いあげる、定番がしっかりいとおしい。
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これもそうだが、数日前に観た松竹三羽烏の軍隊内ものも、マキノ作品として本来の土俵ではないが、軍隊の権威·威厳はまるで消えていて、「砲兵も任務なら楽隊も任務、代わりはない」「その楽器を兵器と考えるなら、粗末にはできまい」「如何に兵も民も勇気付けられるか。家族にも恥じなく堂々と伝えられる」「中国人を騙してる英米こそが真の敵と判らす事」等が、浮かず日常の延長で伝えられる。屋内も野外も、角度と位置関係のしっかりした押さえ、自在にフォロー以上の伸びやかで効果的移動、アップ表情の確かなタイミングと押し、基本テクニックは、昔観た『阿片戦争』程のキレはなくも通じる、確かさ·上手さ·ケレンなさ、の真の叙述のピーク期。
短期間での半数の未経験者がいる中での、楽隊編成·完成。経験者が教え上達させる、「夫婦」の対の描きが上手く、杉=三井等流石だが、上原=佐野コンビ等はいまいち噛み合わぬ(設定以上に)。しかし、レベルに到達·やり抜いた手応えでグラウンド?上に仰向けになる2人の顔と野の凸凹のサイズ距離の寄り·退き、続く楽隊一斉演奏の黒い影部取りと△▽位置の切り替、の細かなカッティングリズムと造型は、エイゼンシュテイン等問題にしないモンタージュと呼びたいところだが、そういうしゃちほこばった威圧は、全く感じさせない、真のセンス。その後の前線参加次々では、構図·移動·アクションが強く、高まり、伸びやかに続いてく。
伏水もマキノも、世界映画の百選などでは絶対に外せない人で、この時期、まさに銀幕というものを柔軟·完璧に体現している。翻って現在、コロナのせいもあるが、今年の世界の映画のベストの位置を占めた、マックィーンやS·リーの共に複数作は元々映画館用の作品ではないし、ライヒャルト·フェメル·ジャオら女性が最前線の半ばを押さえている。しかし、この2人の作家が今に現れても、しっかり吸収·対応、より見事な新機軸を探り当ててゆく気がする。それくらい、柔軟で鋭く、ブレない、映画の申し子たち。
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