ねんお

ヤンヤン 夏の想い出のねんおのレビュー・感想・評価

ヤンヤン 夏の想い出(2000年製作の映画)
5.0
 あまりにも美しく、優しい物語。群像劇の中で確執を抱える各々や、それぞれ二組の物語が入り組みながら進んでいくのは「獨立時代」でも描かれていたが、本作ではそこにさらにヤンヤン、ティンティン、NJの世代ごとによる階層が導入されている。そしてその各層をつなぐのが、意識不明の祖母という存在である。ヤンヤン、ティンティン、NJが祖母に対して異なる感情を抱いていることは、家族という構造を示しつつ人間像を明らかにしていく。
 第二次性徴期の直前にあって、いじめられ、仕返しをするという常に対立の立場にある女子という存在に対して、ある一人の少女への稲妻(映画内で「すべての生物の源」という言及がなされていたのは非常に示唆的である)を伴った視線は、ヤンヤンの恋の萌芽を予感させる。ドアの取手に裾が引っかかり、偶然にもスカートの中を覗いてしまったヤンヤンは、その少女のことを初めて女性として認識する。彼の心中には嵐が渦巻き、稲妻が駆け抜けているのは表象からも明らかである。恋とは常に区別から始まるが、あの子のために、あの子とを同じことをしたいと願いそれを試みるヤンヤンのいじらしさが愛おしい。
 ティンティンは思春期の最中で、初めての恋愛と失恋、友情の揺れ、そして祖母の意識不明は自分がゴミを出し忘れたことに起因するのではないかという証明し難い罪の意識に苛まれている。思春期とは「喪失」の時期であり、子どもの頃からの純真さをはじめ、多くのものを失う。だが、それと同時に「ゆるし」の時期でもあり、変わっていく自分を許容し、自分自身としなければならない。祖母はティンティンを赦し、彼女は喪失という伽藍堂の中でまた歩みはじめていかなければならない。
 NJはその「喪失」を取り戻そうとする。三十年来の青春を。しかし彼の躊躇はあまりにも長すぎた。家族の存在、会社の仲間、そして何より何も言わずに消えたかつての自分に対する罪の意識によって、彼は踏ん切りがつかなかった。大田という好人物との出会いで親交を育む一方で、彼を起点にした仲間の裏切りともとれる行為でNJが全てを捨てようとする決心をしたことは、あまりに皮肉に満ちているのではないか。けれどNJの顔はやはり穏やかなものである。失ったものを失うように、死人が忘却によって二度目の死を与えられるように、彼は彼女との対話を通じて別れの儀式をも同時に行なっていたのだ。三十年来の喪われた青春は失われた。
 芽吹と喪失と持続、人生の各起点に置かれたこれらの儀式が、人物たちを揺さぶるい、その波紋はゆるやかに広がっていく。我々は、生きていかなければならない。過去の喪失は、未来の獲得と言い換えることもできるのではないか。うちひしがれ、涙を流そうとも世界は絶えず美しいことは非情なことであろうか。一歩ずつ進み、一つずつ歳を重ね、過去を過去として受け入れ、忘却の河に流し、現在を受け止めて未来を見据えることができるのは、人生が刻み込んだ皺をくしゃくしゃにして「もう歳だな」という時である。
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