レインウォッチャー

オアシスのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

オアシス(2002年製作の映画)
4.0
わたしには、これを《純愛》なんて呼べる勇気はない。

何度も眉をひそめ画面から目を逸らして、現実で「見なかったことにしていた」記憶を掘り起こされたりもして濁った声が漏れて、その度にああ自分はただの汚い餓鬼なんだと思い知らされる。あの焼肉屋で周りを囲んで白々しい顔のまま箸を動かしていた客たちと、何も違わないのだって。

この映画を観て感動した泣いたというひとたち、それはどんな色の涙なのでしょう。しょせん彼等は見世物小屋のフリークス、だからピュアに違いないと真白い線を隔てた観客席の安堵が一滴も混じっていないと言い切れるのですか。だとすればわたしは心から敬い這いつくばります。

イ・チャンドンの映画は「厳しい」。どうやらそれが少しわかってきた。
今作が仮にラブストーリーと呼ばれる類のものだとして、通常であればその最も基本的な鍵となるはずの《共感》を容易には許さない。

前科者(かつ、おそらくグレーな発達障害)の男ジョンドゥ(ソル・ギョング)と、脳性麻痺で部屋に籠りきりで放置される女コンジュ(ムン・ソリ)。2人の間に、わたしたちが漠然と《愛》とか認識しているもの、動物的な欲求や保身や憐憫以外の高次の何か、幸福が通い合う瞬間が果たしてあったのか。わからない。

周囲から厄介「物」扱いされる2人ならではの連帯があったのだとか、乱暴されかかったとしても初めて人格ある人間(異性)として扱ってくれたジョンドゥにコンジュは惹かれたのだとか、それらしくドラマティックな理由をつけようと思えばつけられるだろう。
しかし、そのどれもがこちらの居心地悪さを緩和するためだけのものに過ぎない、と突きつけられる。それほどに、彼らが《異物》であることを映画は強調し続けるのだ。ジョンドゥもコンジュも、わたしたちの多くが身に着けてきたであろう文法では、その内面や行動の動機を読み取ることが(2人それぞれ別のベクトルで)難しい。

唯一の手掛かりというか救いは、時折コンジュが幻視するビジョンの描写だ。そこでの彼女は「ふつう」であり、ジョンドゥと思い通りに会話し体を動かしてロマンチックな時を過ごしたり、自由で夢のようなイメージに遊ぶ。
これらの場面でムン・ソリが見せる表情や姿勢のスイッチングには驚きや感動を通り越して恐怖すらおぼえるのだけれど、お陰でコンジュの内面には少なくとも光があったのだと推し量ることができる。ここにおいて、「わからなさ」はかろうじて首の皮一枚で「わからないが故の尊さ」に転じ得る。

また、ジョンドゥとコンジュは、共に他者の罪を肩代わりしている者でもある。それぞれ背景は異なりつつ、周囲の人間は彼らを鬱陶しく思いながらも体よく利用し、搾取し、歪みを一方的かつ無意識的に押し付けるのだ(時には、まるで善人のような顔をしている点に注目したい)。結果的に業罪を引き受け続ける2人の様は、どこか受難に身をささげたイエスを想起させる。

この発想は、ジョンドゥと接する牧師との祈りのシーンや、気絶したコンジュの目を醒まさせようとジョンドゥがシャワー(水)をかけるシーン等によっても後押しされるところ。
イ・チャンドンの映画では折々でキリスト教的モチーフに接近していて、蓄積されたエネルギーは次作『シークレット・サンシャイン』でよりダイレクトに爆裂するわけだけれど、今作でも《救い》や《愛》の尺度が絶対的な他者にどこまで及ぶものか?と挑戦するような姿勢が既にうかがえると思う。

何にせよ、わたしたちはジョンドゥとコンジュに比べれば周囲の奴等のほうがよっぽど《共感》しやすいはずであり、そのことから逃げてはならない。それに、この映画は逃がすつもりもない。実は、「私はあなたが大嫌い」と率直に告げたジョンドゥの義姉だけが、劇中で真に正直で真っ当な人物だったのかもしれない。

イ・チャンドンが見せる「厳しさ」、薄っぺらい共感や感情移入を越えた先。安易に「障害は個性!」とか「誰にも更生のチャンスはあるべき!」とか言っているうちには決して辿り着きようのない地点。
本当に分かち合える《オアシス》があるとすれば、そんな場所なのだろう。