映画スターで伯爵夫人マリアの葬儀に集まった男たちが視点を変えながら、淡々と皮肉に語る叙述形式。マンキウィッツらしく凝ったスタイルだが、このシンデレラ・ストーリーにめでたしめでたしはない。
シンデレラであるマリアはスペインからハリウッドへ、不幸な生い立ちから一躍スターダムへと上り詰めながら王子様を待つ。とはいえ大富豪の王子様が履かせようと差し出す靴は、どれも彼女に相応しくないので脱いでしまう。運命の王子様は裸足のマリアと出会った伯爵だ。けれど幸せが末長く続く代わりに、やまない雨の中シンデレラ自身が動かない石像となる…そんな呪われたお伽噺。
富や地位と権力を持つ男たちは夢の王子様ではないし、マリアも大衆の偶像や男の虚栄心を満たすための道具ではない。なのに誰かの夢でしか生きられない。男たちを見据えたエヴァ・ガードナーの堂々と威厳ある佇まいは、自ら石像と化したようでかなり皮肉だ。マリアが生身でいられたのは裸足で踊っている間だけだったのだ。
ボギー演じる映画監督ハリーは、魔法の使えないフェアリー・ゴッドマザー。彼は映画業界の汚い面も自分の限界も知り尽くし、それでもそこに理想と夢を求めてマリアのイノセントを守ろうとする。一方で、脇役引き立て役に置かれた女性たちは夢を見ない。幸せといえない現実を受け入れてる。それもまた残酷である。人生は脚本通りにならず、生身の人間にお伽噺はあり得ない…って、当時のマンキウィッツはどんだけ絶望悲観してたんだろうか。
更に富豪や王族、伯爵の件はどれも男性性への依存とその脆弱さを容赦なく執拗に描いてて(男性性を放棄したハリーはおかげで特権を得るが、それもちょっと都合よく見える)、階級社会への毒もたっぷり。むしろこっちが真の主題とすら思え、そうなると主体があるようでないシンデレラの悲劇は悪趣味に感じざるを得なかった。
マリアの出演映画を一切見せない(語らない)とか、スペインからずっと影のように付いてくる男とか、とにかく妙に不穏なんだよね…。