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かくも長き不在のSPNminacoのレビュー・感想・評価

かくも長き不在(1960年製作の映画)
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消息不明となっていた夫が帰ってきた。夫婦の再会はいくらでも劇的な場面にできるが、そうならない。彼は既に冒頭からそこにいるから。2階の窓から妻が恋人のトラックを見送ると、角から現れる小さな人影。日々「セビリアの理髪師」を口ずさみながら街をさまよい歩くホームレスの人影。何度もすれ違ったはずの影が記憶を失くした男とわかると、今度は彼を夫だと確信した妻が街を探し歩く。
バカンスで人が引き払ったパリに流れるセーヌ川。その畔で記憶の断片を集めるかのように、古雑誌を切り抜く男。妻は何も明かさず、ただ彼を見つめ後を追う。そんな風に、映画の約半分まで2人は「再会」しない。そもそも、夫だという確証はどこにもなく、忘れているのかもわからない。夫の名を呼びたいのをぐっと堪え、記憶が蘇る瞬間を待つ妻。
感情を抑えに抑えたアリダ・ヴァリの射抜くような眼差しは、男が宝箱を結わえた紐をゆっくり慎重に解くように、今にも壊れそうな存在と時間を繋ぎ留めようと緊迫する。「切ればいいの、また結べる」と言った妻、雑誌を切り裂くハサミを携帯する男。常に2人の行動はすれ違う。
ワイド画面にカフェや街路、川を捉えた余白が16年の空白を静かに物語っている。そこで聴こえるのはオペラのレコード、絞り出すような言葉。とことん抑制された演出演技だからこそ、初めてアルベール・ラングロワ!と叫ばれた瞬間のあの恐怖。トラウマが蘇りすべてを水泡に帰す光がなんと強烈なことか。(ここは黄泉の国から愛する人を連れ戻す途中「決して振り向いてはならぬ」の禁を破ってしまったギリシャ神話のオルフェウスを思わせる)
過去を描くことなく、かといってこの先の絶望も語らない。後ろ姿に見える大きな傷跡、切り抜かれた後の雑誌こそが悲劇。
カフェのドアを開けると夜になっていたり、帽子とコートを脱ぐとテーブルに着いていたりといった、驚くほど自然でさりげない場面転換の編集がまた見事だった。
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