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完全な遊戯のodyssのレビュー・感想・評価

完全な遊戯(1958年製作の映画)
2.0
【娯楽風俗作品の枠を越えない】

昭和33年製作のモノクロ映画。石原慎太郎の原作です。

遊び人の学生たち(小林旭、岡田真澄、ほか)が、カネ欲しさから競輪でケチ臭いノミ行為を計画します。

ここら辺の描写が結構細かいのですが、時代が違うせいか見ていてもあまり面白くありません。当時は今と違って異なる都市間では電話がつながりにくく、その時間差を利用してすでに勝負のついている競技の馬券、じゃなかった、競輪だから輪券(?)かな、それを購入して儲けようというたくらみです。電話がつながりにくいだけでなく、ケータイは勿論ないし、公衆電話も数が少ない時代だったので、いかに電話のある場所を確保するかにも工夫がこらされています。同時代の人からするとそれなりに面白かったのでしょう。

さて、首尾良く儲けるはずだったのが、輪券を買ったのが私設の場外輪券屋(葉山良二)で、学生たちの購入したレースで大穴が出たためにカネを半分しか払えなくなってしまいます。そこで学生たちは意趣返しとして輪券屋の妹(芦川いづみ)を誘拐します。妹を返して欲しければ残りのカネを払え、ということだったのですが、カネがない私設輪券屋である兄は仕方なく銀行員を襲ってカネを強奪します。

ここら辺から事態ははっきりした犯罪行為に進展し、カネ欲しさから始まった学生たちのたくらみは思わぬ方向に流れていくのです。

設定を多少変えれば今でも映画になりそうなお話ではあるのですが、見ていてイマイチ乗れないのは、学生たちが実に安易に行動しているからでしょう。

この時代、日本ではまだ大学進学率は低かった(1割程度)。見ていると主人公たちは三流大学の学生で、ということは当時の日本にあってはお坊ちゃんだったわけですが、そういうお坊ちゃん故の安易さを見つめる批判的な目があまり感じられない。たぶん、原作者の石原慎太郎自身裕福な家庭の出だったし、作家として注目された時も日本的ビンボー私小説とは違った作風で世に出たから、映画も同じ方向性でということだったのかもしれません。また、映画はそもそもリアリズムで作るものとは限らず、同時代の平均的な暮らしよりも上の階層を描いた方が人気が出る、ということもあったでしょう。

しかし、それにしても、最後に小林旭は改悛して或る行動をとるところで映画は終わるのですが、彼がそういう行動をとる必然性みたいなものがあまり作中に現れていないのです。無軌道な生き方には、それなりの家庭的な背景などがあるはずです。そうした部分が描かれていないこの映画は、時代の限界を超えることのない風俗娯楽作品に終わっているような気がします。
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