途中まで、話が出来すぎていてご都合主義的というか、物語の必然性が無くただただ説教臭いだけの寓話だと思っていたが、ラストの10分でこの映画の評価がかなり上がった。ただ、これはいわゆる「どんでん返しが凄い!」という意味ではなく、己の視野の狭さ、認識の甘さを痛感させられたという意味であり、それを否応無しに気づかせた脚本の構成の美しさに拠るところが大きい。
まず、最後の10分までは1人の女性を、不運と偶然が重なって家族ぐるみで追い詰めてしまうという話であった。舞台が1900年代初頭というのもあって、女性や労働者の権利は今ほど保障されていない。自殺したエヴァは労働力としても、女性としても搾取されていたし、慈善団体からの支援も受け取ることができず、人からも社会からも見捨てられてしまった。当然バーリング一家は、1人の人間を追い込もうとしてやったわけではないし、納得できるかは置いておいて、彼らなりの言い分もあるにはあるのだ。ここまでは、冒頭で述べた通り不運が重なっただけの、或いは物語によって不運を押し付けられた1人の可哀想な女性労働者なのだが、、、、
【以下ネタバレを含む】
ラストの10分で警部が偽物であることに気付いた一家は病院に連絡し、自殺した女性はいない事を知る。偽警部は事情聴取中、一家に対し、1人ずつ、女性の写真を見せて確認していたり、女性の名乗る名前が2回3回変わったりと、不審な点があったため、自殺した女性もおらず、一家が偶然追い詰めてしまった女性も全員全く別の女性であったと結論付ける。しかし、この次がこの話の大きなミソなのだが、この結論の(恐らく1〜2時間程だろうか)後に、結局被害にあっていたであろう女性が自殺してしまう。これをご都合主義として片付けるのは簡単だが、この演出を見せられてはそうはいかないだろう。この女性はエヴァという1人の女性として出てきたが、1人の女性として死んだのではなく、誰でもない(≒誰にでもなり得る、起こり得る)女性として死んだのだ。悪意のある無しに関わらず、不親切や不誠実、搾取などによってこの世の弱者、或いは女性という存在は過去(偽警部が来た時点)から未来(自殺した女性はいないと結論付けた時点から見た大オチ)を通して、追い詰められてしまう。
バーリング一家のように、偶然や不運を言い訳にしたり、自分の都合の良いように物事を認識する事は容易であるが、そういった考えや振る舞いがこの先誰かを殺す事も容易であるし、弱者であれば誰しもがエヴァになり得るという事を、視聴者に無理やり突きつける、非常に美しい構成となっている。