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ラザレスク氏の最期のニューランドのレビュー・感想・評価

ラザレスク氏の最期(2005年製作の映画)
4.5
✔️🔸『ラザレスク氏の最期』(4.5)『シェラネバダ』(3.7) 及び🔸『グウェン·砂の本』(4.3)▶️▶️

年末こじんまりした所で宝石のような作に(再)会う。 10数年前のTV録画DVDや、You-Tubeの動画で。
シネフィル·イマジカが、WOWOWに吸収され、消滅したのは酷い成り行きだった。CSの世界もハイビジョン番組が主流になり、希少作が多いイマジカだが、ソースからしてHD化できるものが少かったせいもあると思う。アメリカのライカートやアルゼンチンのマルテルのような、日本劇場未紹介の鬼才の作品が目白押しであった。当時、ガラケイもスマホも(今に至る)パソコンも持ってなかった私は、作品群の多くについて未知だったが。それでも、この作『ラザレスク~』の名声は流石に聞き及んでた。アルゼンチンと並ぶ意外な映画王国ルーマニアの、ひとつの頂点を成す作品とされてた。2008年位だったか、放映の録画をDVD速回し再生で見て、実力を測った。紛れもない傑作、この欄の採点に換算すると4.1か。只、速読しかしてない。数年経ち(2016)、この監督のその後の作が、TIIFで上映される。2本だけの判断だが、これ見よがしのスリリングな悲劇に向かうムンジウより、遥かに本格作家とわかる。父の法事に集まった親族が、修羅場を繰り広げるに至る話だが、映画の様式化は『ラザレ~』より進んでた。横移動やパンを往き来する長回しが主体だが、ジャンプカットを折り込んだり、前半の重苦しい室内から、後半は野外に解放感の変化も与えていた。罵る喋りの重なりが手慣れた風格へも繋がっていた。が、映画としては見事たが、映画を超えてもない映画形·優先の作。
『ラザレ~』は、誰もが気にとめないような、目立たない主人公の孫でも近場にいてカメラを回してるようなカメラアイ。これ見よがしのカメラの大胆振り回しはなく、適度にカットされ、手ぶれ見せながらのシンプルな撮り方、角度やポジション変化もスタイルとは別の感覚。気分が盛り下がったか、黒身画面になったりも。
ブカレストの庶民アパート、妻に先立たれ一人暮らしの63歳の老人が我が身の異変を感じて、人々に助力を気弱もしっかりもとめてくも、隣人家族·女性救命士(ま救急隊員か)·複数病院·次々専門医らしき、の対応·受渡しは、重度のアル中患者であるとの思い込みと軽蔑心、よって腹より頭(元々と倒れた時の脳の損傷)という患者の言葉も聞き流し(両脚の傷にもなかなか気づかない)、ハンガリーから移ってきたらしいのへ移民蔑視観、部署同士の優位のマウントの取合い、車の大規模事故から運ばれた救急患者らの優先、で病いの進行や解明以上に、多く内実を見ないルーチンの齟齬で、どんどん悪化するばかり。その先入観、救命士との家庭·家族の話での打ち解けも、すぐに先走る見通しの被りがリード取り戻す。その劇作を越えた、自然だが不合理な優先順序感·トリアージの機能不全が様々なニュアンスで上塗りされてく。
3つの病院内部に入ってより、(カメラの持ち手として)子供が事態の細かい変化·思わぬ次々新しい事態の参入にキョトキョトするように、カメラは新しい方向な惑いまた戻し、細かく揺れ·戻し全体としても動いてく。美学とは無縁な作だが、無心に勘所を追い離れまいとしてる、必死感は結果は生まれないも、人間生理とフィットして美しい姿勢求めも感じる。
CTやMRIらの機器の数不足で待ち時間の長さ、業を煮やし次へ回ると、また1から検査が始まる。救急隊員がすでに自明の事は置いて次へ、と促すと医師と隊員の立場や権限の違いの講釈が始まる。それでも医師の側も、只ならぬ事態とすっ飛ばてゆく必要性を感じる。しかし、患者の受渡しの度に自分の腕だけを振りかざし、他者による資料を軽視して、前段階がなかったかの様に、悠長に進む。更に、より多大な死者を生もうとしてる、交通事故が割り込み、どうしても目先の話題が方向づくりになりがちとか、夜間で緊急と普通に作ってる列が交じり、緊急より·次の患者を近い列の頭にもってきがち。繰り返すが、痛いのは腹部でなく頭部という患者の言葉の重視が遅れ、アル中的匂いや実際患者の言葉が縺れるので、余計患者の意志無視になりがちに。
医療の実態の問題を踏まえ越え、その国や時流の目先に濁った意識ばかりが、人間の社会に従う·心の欠如の問題の二の次という、時代や国が変わっても対人関係·判断を曇らす、社会全体の生理といったものまで、実に描写の隙なく、現実の息遣いを表しきってる。それに誰もが憤慨しうるクラスで、かつ浮わつかず偉ぶらずのタッチは、主人公の生命と肉体の崩壊を揺るがない既定路線に、し得ている。痛々しく、それを防ぐ筈の社会システム自体が、絡みあって機能を停止してる、を近しく親しく見せつけ尽くすのだ、その手捌きやフィット刷る程ブレや偏見の、必然を狂いなく·まんま見せる。一見、そうは見えぬも真に偉大な映画と、思い知る。ベッド·風呂場·ストレッチャー·救急車·院内での移し変え·CT引っ掛かり、患者の身体の扱いと移動が、当たり前に乱雑に一般的に心も痛めない、医療制度側(時折良心に戻るが)。どういう形でも1度は見てるので、躊躇ったが、やはり2023の年間ベストリストから外せない。
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『グウェン~』は、嘗てアンケートで、コミック評論家の小野耕世氏が、全アニメの最良作に推した作。ずっと気になってたが、今回スッと見つけられた。ノースーパー、フランス語版でみたので、台詞は一切分からなかったが、ど偉い質の作であるは分かる。スタティックな静謐な整えられた作(構図がピタッと極り、崩さずの横フォローや、的確部位アップらに切り替わる)だが、時にカメラが低い空撮で滑り出し、一面の質がいつしか変容を遂げたり、人の画面前後動きや交互カットバックが溶かし込んでもくる。直截な、飾りのない、迷いのない線で表される、砂丘が一面の、ダチョウの尾を刈るのが主の、竹馬で移動する民族の中の、女と年下の男·老婆にも入れ替わる、を中心とした彷徨を描き、巨大な装身具や足跡から想像される巨人·そしてはっきり目撃は赤い発光体のUFO、らと絡まり、やがて家屋が密集する街部に入り、住民の総意なのか·中の図形の透ける巨大な地上上への津波状を招き、花火が打ち上げられ続けるに遭遇す。捕らわれてもいたも、救出とそこの権威食わせ者二人組の慌て·ぐらつきへ、ヒロインらはダイナミックに自然へ戻ってく。ストレートな1本気な線と質が基本だが、様々に観る側の視界では安定とは無縁。砂嵐らによる不明瞭さ、様々な陽光の時間毎の変化や月光の青く冷たさ、による微細移行染め、それはUFO群飛行芸遭遇や実写の如くキレのいい花火連打にも、同様な影響力を与えてく。基本質感は変わらぬ徹底感あるも、影響を与えるものの形さえ越えた無限感を感じる。更にキャラの内面的な、只想像イメージの単色筆でのスケッチ、というのが素人っぽさを出して挟まる。全体のシンプル線·面とフリーな変容·可能性に対し、メイン人物外の顔の表情·つける仮面は結構複雑さとこわばりが浮き出て、ゴテゴテしている。捕らえるダチョウや、掌中の蠍や光る蛾ら、人間の手中にあるもの独自の存在の光り方が継続してある。それでいて、人間同士の性等の関係は直接的より皮膚感覚的か寓話的である。
大量のナレーション·モノローグを理解しないではの面はあるにしても、この作を映画史の頂点に伍すると思う。信念と奢りなさ、そして柔軟さ。スッキリしきってるようで、気づかないレベルでとんでもないところに達してる。『弦走』『魔笛』(伊中編)『禿山~』『ピノキオ』『バッタくん~』『~農場』『心の力』『わんぱく王子~』らに迫る。『ファンタスティック·プラネット』より確実に優れてるし、昨年IFFから話題になってる『オオカミ~』も見たくなった。
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