垂直落下式サミング

ザ・コーヴの垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

ザ・コーヴ(2009年製作の映画)
4.9
日本公開が危ぶまれた和歌山県太地町のイルカ漁の実態を撮影したドキュメンタリー映画。劇場に対して「公開したら許さない」みたいな脅迫文が送られてきて、公開当時やたら騒ぎになった映画らしい。
ある日、自分にイルカが「助けて!」と語りかけてきたと語る電波系アニマル左翼オバリー氏の招集をうけ撮影チームが和歌山の太地町に集結!空前絶後の隠し撮り作戦がはじまるのである。カメラは彼の狂気的なまでの撮影に対する執念を映し出すのだ。
捕鯨、核、太平洋戦争、領土問題、日米安保…だいたいこの辺りが日本社会のタブーなのだと思う。何にしても、耳も目も塞いでこういう映画があるという現実を見ないことにするのはいいことじゃない。題材をみただけで国辱映画だと感情にまかせて騒ぎ立てる批判はトンチンカンだ。それこそイルカは可愛いから殺すなという感情論と何も変わらない。
まぁ…この映画のスタッフたちは「日本の漁師たちはイルカを殺す残忍なやつらだ!この習慣を許すな」と訴えたかったのだろう。どうしたってプロバガンダ映画だし、日本人に対して好戦的な作りでもある。

反捕鯨派側に「イルカは知能が高い動物だから殺してはいけない」ということを言う人が多く出てくるが、彼等の主張を最後まで聞いてもよく意味が理解できないし、実際その論に突っ込みどころは多い。「イルカの脳は人間に近い」というのは脳科学者のジョン・C・リリー先生が言ったことですが、これは科学的に実証されてない仮説らしい。何でそれを信じている人が多くいるのかよくわかんないんですけど、仮にこの説が正しいとして、じゃあ頭が悪い動物だったらぶち殺していいの?ってハナシじゃないですか。
屠殺の方法が残忍だってなら、じゃあどういった殺し方なら道徳的なのかを共通認識として定めなきゃならない。マックやケンタッキーなんかは人の目に触れてないだけで実際超残酷だと思いますけどね。家畜は生まれたときから商品になることが決まってのに、在庫過多分はえげつない捨て方をするわけですから。
話を戻して、この作品のイルカ漁の様子を映したシーンは映像的な価値が充分にあり、入江に追い込んで刺したり殴打したりと、あんなに海が鮮血に染まるのかと衝撃的だった。あれは『ビハインド・ザ・コーヴ』で嘘だってわかったんですけど、ある程度の文化的な価値観を共有してない他民族がみたら、「日本はイルカに酷いことをしてるぞ!」と感じるであろう凄い訴求力を持つ映像だ。
そもそも「ドキュメンタリーを作りたいから撮らせてくれ」という奴に、「お前らは害意をもった団体だからダメ」という理由で資料提供しなかった太地町の人にも落ち度はある。彼等は最初から後ろ暗いものはないという姿勢を貫くべきだった。そうしておけば、あの映像は演出だとか嘘だとか言えたはずなんですよね。臭いものに蓋ってのは、こういうところでツケが回ってくる。本当のことを隠しながら向こうが折れるのをただ待つだけだったら、彼等に「真実を暴き出した」という言葉を与えてしまったのだ。
だから、アンサーとして日本側も地元民の肉声とともに、イルカ漁の映像をはっきりと世界に公表すべきだった。どうやって浅瀬に追い込んで、どうやって仕留めるのか、歴史を交えながら地元の人が漁についての本音を語るべきだ。同じくイルカ漁をやっているフェロー諸島の人たちは、それを公知にしてるからそこまでバッシングされていない。要するに動物の屠殺ですから、その実態をつまびらかにすることは確かにショッキングだが、身も蓋もない真実の映像をみせないことには、国際社会には不透明な業界だとレッテルを張られても仕方ないだろう。
その点、『ビハインド・ザ・コーヴ』は地元民の傍に立った忖度をして変に気を使ってるからbeefとして超ヌルいんですね。人道的だ、安全だ、言われない中傷だと、声高に叫ぶだけで、具体的な装置や資料をみせてくれないのが本当につまらない。そりゃあ日本側の視点で作ったらああいった内容の映画になるのはわかるんですけど、お人好しで平和的で平べったくて実に情けない映画だった。
イルカを売って生計をたてている人や、鯨肉が好物の人はいるわけですから「日本は国際的多数派の倫理感に譲歩すべきだ」なんてことは言わないけど、僕は鯨肉なんか食えなくなったって困らないし、イルカが殺されていることにも別段憤りは感じなかったので、双方をわりと冷めた目で見ているのかもしれません。だからこそ、わりと冷静な視点が保てているんじゃないかと思う。
物事は、理屈と根拠を並べて正当性を示すより、人の感情に訴えかけることの方が遥かに有効なのだ。最近よく好まれる言葉に「論破」とか「正論」ってのがあるが、実はそんなものに意味なんかなくて、正しさはその場の雰囲気でどっちにも傾き得る。その思想がマジョリティなのかマイノリティなのかとか、指示者層の気質や熱量なんかでも言葉の重みは変わってくるし、論を綴る人の力量次第で尤もなことを言っているようにも見えるし、ただ的外れな小言を垂れ流しているだけのようにも聞こえる。その意味で『ザ・コーヴ』はとても優れた“正しさ”を持った映画だと思う。


以下は生き物を殺すことについて、私なりの考えを書こうと思います。
これちょっと過激な考えかもしれないんですけど、私は人間が人間以外のどんな生物をどんな理由で消費しても何一つ問題ないと思うので、法を逸脱しなければ何をぶち殺して食っても構わないと思う。「食材への感謝」とか「生命に上も下もない」とか言う気がないあたり、真面目な人からしたらとても無責任で適当な奴の意見に聞こえるかもしれない。申し訳ないが、私からすれば、お腹いっぱいになったらご飯は残してもいいし、犬畜生の命の価値うんぬは屁みたいなもんだ。
ところで、私の祖父は森林組合員をしていたのですが、カモシカの害獣駆除に抗議をしに来た動物愛護団体の方に「人の都合で獣を殺して何が悪いのか」と言い放って色々と物議を醸し出した烈々たる山男だったと聞く。実際はもっと汚い言葉で激昂しながら罵ったそうだ。まったくもっておぞましい。その血が多少薄まりながら私にも流れているのだろう。
極論を言ってしまうと、私は牛だろうが豚だろうがイルカだろうが人が道楽で殺したって別に構わないと考えている。これ言うと怒るが人いるんだけど、人に食われるために殺される家畜と、死ぬまで人に愛玩動物として鎖に繋ぎ止められるペットと、子供の遊びで足をむしられて川に流されちゃう昆虫と、何が違うのか私には理解できないんですよ。これらは道徳的にすべて同じ「酷いこと」であるべきなのに、そうは言われないじゃないですか。可哀想とか無益だとかそういう感情論で来られても、行為の正当性は問うべきじゃない。もしそうならば、可哀想じゃなかったら殺していいとか、益があれば殺していいという逆説が成り立たなきゃおかしいだろう。それこそ人道的でない。だったら、最初から動物は人間に所有され、消費され、淘汰される権利しか認めないということにしといた方が決まりがいいでしょう。
動物愛護や自然保護の精神は結構なことだし、学術研究としての種の保全は大切だとは思うのですけど、物事は一貫性が大事だ。こういう話になると、モラルという不確かで野蛮なものが出てきて話をややこしくするが、ケースバイケースで変わる決まり事なんて無いのと同じだ。ルールはシンプルにしといて、その運用と判断は各人に任せて、それを尊重する。それが血の通った社会だと思う。
何にしろ人間のできること・していいことに極力制限を設けたくないというのが私の考えでして。もちろん一方的な価値観の押し付けや相手の人間性を否定することは決して許してはならない。人と人が自らの権利を主張し合って、各々の利権やアイディンティティの兼ね合いも含めて、どこかで平和的に落とし所を見付けましょうよ、それでお互いに一応は納得をしたことにしましょう、というのが今日におけるヒューマニズムの在り方のはずだ。ルールがあるなら厳守すべきだし、それを逸脱していないのなら責めることはできないし、定められたルールの範疇でやっていることなら問題ないだろう。

まぁ…要約すると「難しいよね」ということです。ともあれ、私は私の関与しない領域で起こるあれこれについて、惜しみなく寛容だ。食うも食わないも好きにしてくれればいいよ。