シゲーニョ

トレインスポッティングのシゲーニョのレビュー・感想・評価

トレインスポッティング(1996年製作の映画)
4.3
過去のとある時期、スゴい熱量を持って惹かれたはずなのに、しばらく経って再見してみると、「アレ?こんな映画だったっけ?」と、ちょっと冷めてしまったり、或いは新たな発見をしたりする映画がたまにある。

自分にとってのそんな作品、その一本が本作「トレインスポッティング(96年)」だ。

そもそも自分には、「英国映画は登場キャラのファッションと、劇中に流れる音楽がリンクしていてカッコいい」という、勝手な思い込みがあって、それは60年代のスウィンギング・ロンドンを舞台にした「ナック(65年)」、「雨に唄えば〜♪」を口ずさみながらウルトラ暴力に明け暮れる「時計じかけのオレンジ(71年)」、モッズ・カルチャーを克明に描いた「さらば青春の光(79年)」、UK音楽史上サイコーのバカップルの実録モノ「シド・アンド・ナンシー(86年)」といった作品群から、大いに刺激を受けたからだろう。

まさにそのブランニュー版、90年代を象徴していたのが「トレインスポッティング」で、公開当時、隆盛を極めつつあった「ブリット・ポップ」がガンガン流れる中、レイブ・カルチャーのアイコンとも云える「トラックジャケット」を着こなし、破天荒な行動を繰り返す主人公たちの「煌めき」に、一発で魅せられてしまったのである。

本作は、不況に喘ぐスコットランドでヤク中仲間と怠惰な生活を送っている、そこそこ頭がキレて病的で、ちょっと無気力な26歳、もう若さが売りと言えなくなったレントン(ユアン・マクレガー)が主人公。

ダチ4人(負け犬・偏執狂・嘘つき・無頼漢)との友情は、やがて崩壊の運命を辿り、ただ一人レントンだけが、そこから逃れるチャンスを手に入れようと画策する…。

友情と裏切り、人生の選択という普遍的なテーマを、クールなユーモアとスタイリッシュな映像で描く本作は、これまでの青春映画のイメージと異なる、90年代の英国をサバイブする“陽気で悲惨な若者たち”の群像劇と云えよう。

但し、劇場での初鑑賞中の自分には、そんなテーマを深掘りする気など一切無く、目と耳から入ってくる“強烈で斬新な刺激”を只々、満喫するだけだった。

とにかく開巻いきなり、スクリーンに映し出されたファーストカットから、ココロを持っていかれてしまったのだ。
イギー・ポップの「Lust for Life(77年)」のイントロの軽快なドラム&ベース音と、警官に追われるレントンの走る足のリズムがシンクロしている(!!)

まぁ、このオープニング・シーケンスに心が掴まれたのは、正直に申せば、自分が大好きだったザ・クラッシュのPV「Bankrobber(88年)」のワンシーンと、当時ハマっていたビースティ・ボーイズのPV「Sabotage(94年)」が元ネタだったからなのだが…(汗)。

次に衝撃だったのが、“禁断症状の幻覚”といったトリップ感溢れるシュールでポップなショットだ。

座薬のアヘンのおかげで急に便意をもよおしたレントンが、ブライアン・イーノの「Deep Blue Day(83年)」をBGMに、“スコットランドで一番汚いトイレ”でバッド・トリップするシーン。
[注:ちなみにレントンに座薬を売りつけた男マイキーを演じているのが、本作の原作者アーヴィン・ウェルシュ]

インパクトのあるトイレのビジュアルは勿論のこと、レントンが便器に飛び込むタイミングで、それまで優雅に流れていたビゼーのカルメン組曲「Habanera」がプツンとカットアウトし、浮遊感のあるアンビエント・テクノ「Deep Blue Day」に乗り変わる、“音の編集”が絶妙なのだ。

このトイレへのダイブは、トマス・ピンチョンの小説「重力の虹(73年)」にインスパイアされたものだろう。
小説の主人公はトイレに落としたハーモニカを追い求め、汚物でいっぱいの便器、パイプの中を泳ぎ回る。
トマス・ピンチョンはこの場面をダンテの「神曲」、地獄巡りをイメージして書いたそうだ。
映像的には、ダリオ・アルジェントの「インフェルノ(80年)」の地下室の水溜りの中を潜っていくシーンを連想させる…。

そして中盤でのシーン、監禁された自分の部屋で禁断症状に苦しむレントン。
部屋の左右両側に貼られた壁紙が視界の奥の方へと伸びていく様は、映画「ピンク・フロイド ザ・ウォール(82年)」で「Don’t Leave Me Now」をバックに、ボブ・ゲルドフ演じる主人公の部屋が幻覚によって拡張していくシーンとの相似性を感じてしまうが、壁紙に描かれているのが、列車の車輌のイラストというのがユニークで面白い。

聴こえてくる曲もアンダーワールドの「Dark and Long(Dark Train Mix/94年)」で、歌詞はほぼ「Ride The Train(列車に乗れ!)」のワンフレーズを繰り返すのみ…。

そもそもタイトルの「トレインスポッティング」とは、電車を見たり、写真を撮ったり、列車の番号を覚えることが趣味の“電車オタク”を意味している。

原作者のアーヴィン・ウェルシュは、ドラッグを摂取する行為が当時、頻繁に駅で行われていた事実も併せて、ヘロイン中毒のメタファーとして捉えたようで、また、この言葉には特定の場所、スポットに留まるという意味もあり、電車が来ることを期待しながら彷徨っている鉄オタたちの様が、ボンヤリと周囲を見渡しながらフラフラ突っ立っているジャンキーに似ていることもあるのだろう。

まぁ、総じて、常人には中々理解できない、“ある趣味”に耽溺する人のことを指していると思う。
なので、当時も今も、一部の日本の映画ライターやシネフィルたちが「元来からジャンキーを比喩する言葉」と声高にしているのは大間違い。

それを裏付ける面白いエピソードが、オアシスが本作の挿入歌の依頼を断った一件。
原作を未読のノエル・ギャラガーは、タイトルだけ聞いて電車オタクの映画と勘違いし、オファーを速攻で蹴ってしまったらしい(笑)。

閑話休題…

さらに映像で目を引いたのが、15フレームか1秒ほどの短いショットの連打。
一杯のミルクシェークに2本ストローを差し、レントンとスパッド(ユエン・ブレナー)が向かい合って一気飲みするシーン。
飲み干す二人の個々のバスト・ショット、口をつけたストロー、飲み干されるグラスが、ダン!ダン!ダン!とテンポよく素早いカッティングで映し出される。

また、雇用省でのスパッドの面接シーンでは、椅子に座ってバカげた自己アピールをするスパッドを、正面から同ポジで、その寄り引きを小刻みにカットバックしている。


こういった映像&音楽がもたらす独特のリズム感は、登場人物たちが物語の本筋とは関係なく、延々と続けるヨタ話にも相通じるものがある。そしてふとしたタイミングで、その会話がトンデモないバイオレンスを引き起こしたりするのだ。

その顕著たる場面が、ケンカ中毒のベグビー(ロバート・カーライル)が、賭けビリヤードでホントは負けたはずなのに、カッコよく圧勝したと嘯く、しょうもない話をバーの2階の吹抜けで語るシーン。

喋ることで、負けた時のイヤ〜なことを思い出したのだろう。バグビーが悪態を突いた拍子に飲んでいたビールジョッキーを後ろに放り投げると、階下にいた女性客に当たり、顔面血みどろになる。

また、シックボーイ(ジョニー・リー・ミラー)のガールフレンドが、ヘロインを注射針で摂取するシーンでの台詞「これまで経験した最高のオーガズムよ!どんな野郎のチ○コよりも最高!」は、嫌悪感と笑いが混在する、微妙にリアクションに困る場面として(笑)、強く記憶に残っている。

ちなみにこのシックボーイは他人を見下すような、減らず口を叩いて、優越感に浸るタイプなのだが、初代ジェームズ・ボンド=ショーン・コネリーの信者で、「ゴールドフィンガー(64年)」でボンドが靴の踵に発信機を仕込んでいたように、同じ場所にヘロインと注射器を隠していたりする。

劇中では、蘊蓄もそこそこに、「コネリーが『アンタッチャブル(87年)』でアカデミー賞を獲得したのは同情票のお陰さ!」と軽口を叩いたりするのだが、但し、「『ダイヤモンドは永遠に(71年)』は駄作だ!ヒットしなかったことで証明されている!」の一言だけは許容することはできない。

なぜなら「ダイヤモンドは〜」は、同年に公開された「フレンチ・コネクション」の2倍以上も稼いだ、その年の世界興収ダントツのNo.1作品だったからである…。

こういったオフビートな語り口は、本作の2年前に公開されたタランティーノの「パルプ・フィクション(94年)」、その影響下にあるという向きもあるようだが、個人的には、リンゼイ・アンダーソンの「オー!ラッキーマン(73年)」とか、TVコメディの「空飛ぶモンティパイソン(69年〜74年)」といった英国式ブラック・ユーモアの流れを汲んでいるように感じてしまう。

本作に在るのは英国特有のユーモアであり、その本質は、自分の状況に対するあきらめの裏返し、または自国評価、それによる悲観主義の賜物と云えるだろう。

英国人には、自虐的な皮肉が一番ウケるのだ。

本作は、スコットランドが生んだ名優ショーン・コネリーだけでなく、78年のW杯アルゼンチン大会、オランダ戦で決勝ゴールを挙げたスコットランドの英雄アーチー・ゲミルも、笑いのネタ(…っていうかコッチは下ネタ)で使う、悪ふざけをしている…。

ガールフレンドとのエッチをビデオ撮りする、妙な性癖があるトミー(ケヴィン・マクキッド)が、そのテープをとある誰かのイタズラで紛失し、彼女との仲がギクシャクした結果、オーバードーズ&ウィルス感染で孤独死を迎える展開なども、その一例と云えるかもしれない。

[注:原作小説の時代背景、1980年代半ばに、世界で初めて英国でBSE(狂牛病)の症例が見つかった]

しかし、こういった考えが(映画クイズのような元ネタ探しも含めて)、頭の中にムクムクと沸いてきたのは、二度三度と見返した時からのことで、渋谷のシネマライズでの初鑑賞時には、旬の音楽・旬のファッションアイテムとして堪能する、まさしく“映画の表面”だけを舐め尽くしただけだった…。

だが、初見時と今見返しても変わらないことが一つだけある。
それは本作が「ドラッグ映画」ということだ。

ウィリアム・バロウズからフィリップ・K・ディックまで…。
「哀しみの街かど(71年)」から「クリスチーネ・F(81年)」「ドラッグストア・カウボーイ(89年)」、そして本作「トレインスポッティング」まで…。
あらゆるドラッグ小説、あらゆるドラッグ映画が主張しているのは、煎じ詰めれば“ジャンキーは裏切る”ということ。

バロウズが「麻薬とは人間の基本的関係である」と主張したように、それを真摯に受け止めれば、人と人との間に無償の友情など成立しない。人間関係とは醜いエゴで、徹底的に利己的な興味同士のぶつかり合いでしかないのだろう。

ヘロインは、普段“文明の衣”の下に隠れているものを“あからさま”にする装置なのだ。

「トレインスポッティング」は、それを寓話めいた味付けでアレンジしている。

そう、再鑑賞時、新たに気付いたのは、本作が80年代と現代(=製作された90年代)をミックスした、ある種の“幻想世界”を舞台にしていることだ。

劇中、レントンたちがひたすら走り回るプリンセス・ストリートを筆頭に、映し出される景色の数々は現代のスコットランド、エディンバラの街並みだし、流れる音楽もプライマル・スクリーム、ブラー、パルプ、レフトフィールド、そしてアンダーワールドといった、流行りのブリット・ポップが中心だ。

しかし、レントンがガールフレンドのダイアン(ケリー・マクドナルド)に「世界は変わっているのよ。音楽も薬も…。一日中、ヘロインやイギー・ポップを夢見ている時代じゃないのよ」と説き伏せられるように、レントンとその悪友たちだけが、“80年代を生きている、現代から取り残された遺物”のような印象を受ける。

確かにダイアンの言葉通り、レントンやトミーは、80年代にデヴィット・ボウイとの再コラボで復活したイギー・ポップを未だにアイドルとして崇拝しているし、90年代のドラッグは「エクスタシー」といったピルが主流のはずなのに、なぜかヘロインにハマっている。

実は80年代の英国では、パキスタン産のヘロインが溢れかえっていて、鉄の女サッチャーを党首とする保守党政権の経済政策の置き去りとなったスコットランドの貧困層の若者たちには、質こそ劣悪だが安価で手に入るとあって、ヘロインが重宝されていた。

中盤、そんな当時のスコットランドの事情を顕すかのようなシーンがある。
ヤク中仲間と荒涼とした平原に遠出した時のレントンの台詞だ。

「スコティッシュなんてクソ喰らえだ。みすぼらしくて卑屈で、ミジメで史上最低のクズだ。みんな、イギリスを馬鹿にするが、その馬鹿に占領された国土の一部なんだぞ!」

スコットランドは1707年に英国に合併されたが、そこに生まれ住む人々は「スコティッシュ=スコットランド人」としての自覚を持っている。
しかし、80年代のスコットランドは、かつて栄えていた鉄鋼・造船・炭坑といった重工業が競争力を失って衰退し、イギリス本土より失業率が高く、若者たちの就職難は深刻化していた。

そしてスコットランドでの生活に見切りをつけたレントンが、ロンドンの不動産屋で働くシーンでのモノローグ。

レントンが語る「No Such Thing as Society(社会など存在しない)」は、首相在任時のサッチャーが述べた言葉だ。

これは、社会保障費の削減、大企業優遇といった自由競争の促進を目指す政策「新自由主義」に基づいた発言で、「いざ問題が起こると、その責任を社会に転嫁する国民の考えは大きな間違いで、そんな社会など存在せず、それに対処するのは政府ではなく、個々の人間、家族の責任である」と訴えている。

つまり、政府は「これからは、お上や他人の力に依存せず、独力で生きていけ!」と、貧窮家庭や弱い立場に置かれた人々を見放したのだ。

これらが劇中で描かれるのは、原作小説自体が80年代の原作者アーヴィン・ウェルシュの半自伝的内容だったことに起因するのだろう。

アーヴィン・ウェルシュは当時をこう振り返っている。
「大量の失業者が出て、絶望が社会に蔓延し、同じだけヘロインも蔓延した。それまではタバコやアルコールで苦しみを忘れようとしていた人々に、ヘロインという新たな“選択肢”が与えられた。そして多くはその新たな“選択肢”を選んだんだ。」

この“選択肢”という言葉は、冒頭、イギー・ポップの曲「Lust for Life」をバックに語られる、レントンのモノローグに符合する。

「人生に何を望むって?
 出世?大型テレビ?車?
 それともCDプレイヤー?
 え?友たちを選べ?未来を選べ?
 だけど、それにどんな意味があるんだ?!」
と自問自答したレントンは、結局ヘロインを選ぶことにする…。

イギー・ポップの歌詞もそれに同調する。
「♪〜愛とか呼ばれるイカサマに引っかかって心が傷ついた/でもオレは今を生きる男/だから生き抜くやり方はわかっている/頭痛に悩まされることはもうないんだ/酒とドラッグがあるからさ〜♪」

このモノローグと歌を、敢えて冒頭に持ってきたダニー・ボイルたち製作サイドの狙いは、本作製作時、野党の労働党が、18年の長きに渡る保守党の“負の側面”を高らかに批判し、政権を奪首する気運が国中に高まっていたこととリンクしているかもしれない。
[注:翌1997年5月の総選挙で労働党が勝利し、ブレア政権が発足]

但し…政権が仮に変わったとしても、社会全体が上手くいくとは限らない。
社会が変わったとしても、それに合わせて生きていくことが正解とは限らない。

凡庸な喩え方しか出来ないが、「社会を疑え!政府を妄信するな!自分の中で沸き起こる快感に従え!」と言っているように聞こえてしまうのだ。

先述したレントンとの会話の中で、ダイアンは最後に「今、重要なのは、何か新しいことを見つけなければいけないということよ」と助言する。
それに答えを出したかのように、レントンは劇中の最後で、こう呟く。

「寿命を勘定して、人生を選ぶことも重要だ…」

これまでの過去から、そして友達から逃げるように、ロンドンの街を足早に歩くレントンの姿。
そこに流れるのが、アンダーワールドの「Born Slippy. Nuxx(96年)」。

「♪〜駆けろ、さあ、犬コロみたいなお前/汚れて麻痺した天使のようなお前/(中略)感覚を研ぎ澄ませろ/顔を覆っちゃダメだ/(中略)今、お前は頭痛を抱えて/気持ちを新たに自分の道を歩んでいるのかい?〜♪」

この曲は、賭博・売春婦・ドラッグなどを連想させるワードが羅列された、まさに「すぐに転落人生しそうなクズ野郎」の哀歌なのだが、よ〜く歌詞を聴いてみると、頭痛を取り除くためにドラック漬けを選んだ「Lust for Life」へのアンサー・ソングのようにも思えてくる。

開巻してすぐのイギー・ポップと、エンディングのアンダーワールドの2曲。
その中で歌われる主人公を仮にレントンとするなら、物語が終幕へと進む間に、ドラッグを選択することで現実逃避していたレントンが、自分を客観視したことにより、最後に別の選択肢を見つけたように思えてくるのだ。

但し、導き出した結論は決して褒められるものじゃない。
禁ヤクを何度も試みながら全て失敗してきたように、結局のところ、「凡庸な人生から逃げ出せ!」という同じ答えに帰結する…。

そう、やっぱり、ジャンキーは裏切るのだ。


本作「トレインスポッティング」で描かれているのは、出口の無い青春像だ。
大した職に就けずに社会の底辺を彷徨う、あまり若くない男たち。

英国映画はこれまでにも、トニー・リチャードソン演出の「怒りを込めて振り返れ(58年)」やアルバート・フィニーが主演した「土曜の夜と日曜の朝(60年)」のような、若者たちがワーキング・クラスの怒りと焦燥をスクリーンにぶつける作品を繰り返し描いてきた。

貧富の格差に焦点を絞れば「長距離ランナーの孤独(62年)」「マイ・ビューティフル・ランドレット(85年)」も同じ系譜に連なる作品だろうし、近年でもケン・ローチが「わたしは、ダニエル・ブレイク(16年)」で、現在の保守党政府の貧困層に対する、冷酷な扱いを告発する物語を撮り上げている。

しかし、こういった一連のワーキング・クラスものが、自国の社会的問題を過度な台詞回しで強調しているのに対し、本作「トレインスポッティング」は、台詞はごく僅か、その代わりに「映像」と「音楽」の力をフルに利用して、人間の意識の奥にドンドン入り込み、主人公たちの“知覚”として、心の底に凝り固まった鬱憤みたいなものを生々しく表現している。

このシニカルで真新しい世界観に気付いたのは、恥ずかしながら、自分が三十路に入っての何度目かの鑑賞時だった…。


最後に…

今から10年ほど前のロンドン・オリンピック。
開会式のセレモニーの総監督を務めたのが、ダニー・ボイル。
そして音楽監督がアンダーワールドの片割れ、リック・スミスだった。

互いに駆け出しの頃に出会い作った「トレインスポッティング」のあの二人が、まさに名誉の頂点を極めた瞬間に、衛星中継ながらオンタイムで立ち会えたことで、自分は妙な感慨に浸ってしまった…。

しかし、ここ数年、ダニー・ボイルの新作のニュースが聞こえてこないのは寂しい限りだ。
(アンダーワールドは2、3年くらいのペースで新作アルバムをリリースし続けている…)

これは英国が2020年1月にEUを離脱したことに大きく影響を受けているのだろう。
なぜなら、一旦離脱してしまうと、EUが運営する、映画やTVの製作資金助成プログラム 「MEDIA」や「Creative Europe」からの資金を一切もらえなくなるからだ。

これはハリウッド映画より、予算も販路も限られた英国の独立系映画プロデューサーや監督たちには死活問題で、このプログラムは資金援助だけではなく、配給を取り付ける上でも力を貸してくれるのである。

「フル・モンティ(97年)」 「リトル・ダンサー(00年)」 「英国王のスピーチ(10年)」、そして本作「トレインスポッティング」も、「MEDIA」や「Creative Europe」の援助なくしては成功できなかった…。

英国がEUを離脱した理由は「主権問題」「安全保障の問題」、そして「移民問題」と言われている。

殊更、この「移民問題」は英国人が移民に自分たちの仕事を奪われるとか、自分たちの文化や制度が脅かされる等、危惧したことに因る事案だが、英国映画界はむしろその逆、ウェルカムで、ビザ無しで自由に移動できることで、多くの才能溢れる欧州諸国出身者の俳優やスタッフがロンドンをベースに活躍し、英国映画界が活性化されたこと、そしてピザを発給する手間、お金がかからなかったことは、大きなメリットだった。

ダニー・ボイルの監督作「28日後(02年)」、プロデュースした「28週後(07年)」が無政府状態を描いたことで、ボイル自身を「Brexit」賛成派だと勝手に決めつける、日本のシネフィルたちが僅かながら存在したのを覚えているが、それは全くの事実無根である。

後年、アカデミー作品賞をもたらした「スラムドッグ$ミリオネア(08年)」も、「MEDIA」の援助なしに製作出来なかったし、本作の20年ぶりの続編「T2 トレインスポッティング(17年)」では、レントンが友人の開業資金のために、EUの投資組合に懸命に働きかける姿を描いている(!!)

ダニー・ボイルは2018年、007シリーズ通算25作目のメガホンをとる予定だったが、製作をめぐる方向性の違いから降板。以降、「イエスタデイ(19年)」を最後に、映画製作から距離を置いている状態だ。

まぁ、随分昔のハナシになるが、1960年代後半、英国映画界にやや陰りが見え始めた時期には、ジョン・シュレシンジャーやジョン・ブアマン、ピーター・イエーツなどがハリウッドに渡って映画を撮り始めたこともあったし、その後に続いたのがアラン・パーカーやリドリー・スコット、ヒュー・ハドソンといった面々。

だからダニー・ボイルも、「127時間(10年)」でハリウッド・システムでの映画製作を経験しているので、一時アメリカに腰を落ち着けることも考えられるのだが、現在はなんと、あの「マトリックス」を舞台化した「Free Your Mind」の演出を、英国マンチェスターの劇場で手掛けているそうだ。

ただ、やはり自分としては、英国人特有のファッション、音楽、ユーモアといった要素を、ダニー・ボイルならではの手管によって掛け合わせた、「化学反応を起こしたようなハイレベルな視覚的・体感的な映画」、そんな新作をまたいつか、来る近い日に劇場で観ることが出来たらと、切に願っている次第である…(汗)。