1949年制作。監督ニコラス・レイ。主演ハンフリー・ボガード。原題《Knock on Any Door》。ウィラード・モトリーの同名小説の映画化。
以下は『黒の報酬』のレビューでゴダールが語ったニコラス・レイ評。
"There was theatre (Griffith), poetry (Murnau), painting (Rossellini), dance (Eisenstein), music (Renoir). Henceforth there is cinema. And the cinema is Nicholas Ray."
「かつて芝居(グリフィス)が、詩情(ムルナウ)が、絵画(ロッセリーニ)が、そして音楽(ルノワール)があった。そしていま、映画がある。映画はニコラス・レイだ」
ヌーベルバーグと5月革命に対するベルトルッチ流オマージュとなった『ドリーマーズ』の劇中、ルイ・ガレル演じるテオがアメリカ人留学生に向かって「ニコラス・レイは映画だ」と言ったセリフがいつまでも脳裏に残っていて、それがゴダールの引用とはつゆ知らずに今日まで来たのでしたが、ようやくニコラス・レイを鑑賞して、よもや「彼こそは映画だ」などと大見得切るわけにはいかないものの、なるほどと思ってみたり腑に落ちなかったりで、要するに小生にとっては評するのがちょっと難しい作品なのでございます。
まず冒頭から、警察がバーに押し入り、夜盗どもの逃げ惑う折柄、貧民街の連中が野次馬となって詰め掛ける場面にそれこそ映画的と呼びたくなるような躍動感を見て感動する。これこそはニコラス・レイか、と。あるいは警官殺しが塀をひらりと越えるシーンで、壁面に映じた影の動きに細かな計算を感じて、これこそはニコラス・レイか、と。はたまた、警官殺しの容疑で捕まった美青年(ジョン・デレク)とはいわば腐れ縁のような関係で、貧しいイタリア移民という出自が災いして道を踏み外すその度に弁護を買って出てなんとか彼を更生させようと尽力してきた、知命を得て間もないハンフリー・ボガード演じる弁護士モートンが、今度という今度は弁護なんてできないと不平を言い募るのへ、不意に不機嫌顔になり、チェスの駒を進める手を止めてしまった妻?の意を察して、「わかった、わかったよ。きみは怒ると怖いからな」とモートンが宥めてようやく相好を崩した女を見て、この僅か数分の演出でたちまち人物の性格と関係性とを浮かび上がらせてしまう手際こそはニコラス・レイか、と。しかしいずれも、無理矢理ニコラス・レイを肯定しようとする迎合的な自分を否定できません。
もしくは、ゴダールの発言はイデオロギーに軸足を置いたものかと疑ってみる。彼の『シノワーズ』など、若かりし小生がゴダールをよく理解し得たとは到底思えないのですが、件の『ドリーマーズ』も舞台は68年の5月革命前夜のパリ、当時の若いインテリゲンチャにとって、毛沢東とは iconic というか trendy な存在で、映画界に身を投じる以前はかのフランク・ロイド・ライトに弟子入りして建築家を志し、その後映画界にあっては左巻きの人物として目をつけられ、どうにか赤狩りの難を逃れたニコラス・レイこそはヌーベルバーグの小僧たちにとっては「カッコいい」先輩に違いなく(しかも晩年は黒い眼帯!)、だからこそハンフリー・ボガードが陪審員の前でした渾身の犯罪社会悪説の演説がマオ主義者たちの体勢批判と呼応し、その事態をもって「映画はニコラス・レイだ」というべきなのかもしれません。
…って、まさかまさか。
ゴダールの真意はともかく、小生が今作で素直に心惹かれたのは以下の2点です。
一つは悪の道をひたすらに転げ落ちる青年ニック・ロマーノが見つけた泥に咲く花、蓮の花、清きエマを妻に娶って真人間として再出発するわけですが、エマの献身的な励ましも虚しく、些細なことで短気を発動しては仕事を馘になりを繰り返し、心が弱いのか性根が腐っているのか(まあ、どちららも同義ですね)、一旦覚えた悪の味が忘れられず、合言葉は「太く短く生き、残す死体は美しく」、雇い主に喫煙を咎められて殴り倒し、家に帰るさ、仕事でさぞかしお疲れでしょうとささやかなディナーを用意して待っていた妻を袖にして、「大きな山があるんだ。しばらく帰らない」と拳銃片手に出て行こうとするのへ、「待って。お腹の子どもはどうなるの?」と決死の告白、同時に今晩のささやかな晩餐の意味を我々は知るわけですが、そこで情にほだされると思いきや、俺の子なんか産むな、の一言で結局出ていってしまうのだからたまらない。男の去ったあとで、ガスの元栓を閉じてオーブンの扉を開くと、時間をかけて作ったものでしょう、お祝いのためのパイが虚しく焼き上がっている。それを見て泣き頽れるエマ。いっぽう、ニックのいう大山とは仲間と駅の切符売り場を狙って強盗を働くことなのですが、ボタン一つで駅員に警察を呼ばれたとはつゆ知らない強盗どもは危うく御用となるところ、バディの一人がヘマをして奪った金と共に高架から転落、それを見捨てて逃亡を図るが不意にニックはエマを一緒に連れていくと聞かず、アパートに駆けつけたが時すでに遅し、部屋中にガスが充満してエマは帰らぬ人となったのでした。この一連のシークエンスの鮮やかなカット割と、ニックのどうにもやるせない心理の、モンタージュによる演出ですね。これはじつに見事。
ああそうそう。言いそびれてました。この映画、メインは法廷劇なんですね。映画における法廷劇の歴史をひもとくのも面白かろうとは思うのですが、それはまたの機会に。
で、二つ目ですが、これはもう最後の最後です。死刑執行当日の場面。弁護士はニックに己の忸怩たる思いを告白し、ニックのような人間の更正に全力を尽くすことを誓う。相変わらず甘やかな顔つきの、美しいニック。「太く短く生き、残す死体は美しく」が口癖だった青年。ここで微笑を漏らす。看守に両脇を固められながらも、小躍りでもしかねないような足取りで処刑場に向かいます。と、ここで、鑑賞者は、リーゼントで決まった彼の頭頂部が、ゴルフボール大に禿げているのを認めます。どこ吹く風とばかりに口笛吹きながら手で髪を整えるニックは、長い廊下の向こうに開いている敷居を跨いで、扉は無情にも閉ざされる。ここでFin。
ゴルフボール大の禿げはですね、これから電気椅子にかけられることの暗示です。通電しやすいよう、当時死刑囚は毛髪を剃られたのですね。頭と、それから足首に電極を付けられた。美しい青年に与えられたこの残酷な瑕疵にはですね、たしかに「映画」の刻印を感じないわけにはいかないでしょう。
この一作をもってニコラス・レイの真価も、ゴダールの真意も図れるはずはないとは分かっていても、『暗黒への転落』もまたニコラス・レイである以上、なかなか悩ましいところではあるわけです。
社会悪としての犯罪という意見がある。そういう側面は否定できないでしょう。しかしいっぽうで、どうにもならないクズというのもいるんじゃないかと。ハンフリー・ボガードの、けして短くはない演説の後、裁判官は言います。「あなたの演説には非常に心揺さぶられたが、憲法に則って被告人を死刑に処す」。
社会の矛盾なり無情なりを告発したいのか、クズはどこまでもクズだよ、と言いたいのか。あるいはそういう議論すべてを包摂した表現なのか。
こういう戸惑い自体が、映画的体験なのかもしれませんね。
それはそうと、『ドリーマーズ』の最後のシーン、確かガス自殺を図ろうとするんじゃなかったかしら。今作のガス自殺の遠回しの引用かと、ちょっと妄想する次第。