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殺すまで追え 新宿25時のニューランドのレビュー・感想・評価

殺すまで追え 新宿25時(1969年製作の映画)
2.9
☑️『殺すまで追え 新宿25時』及び『駈けだし刑事』▶️▶️
午後4時位が最終回で、午前中に用事もあり、不眠近くの状態でも観たいと思ったは、この特集未見なのと(365日、1日を休息なく会場から会場を走り回り、都内のあらゆる興味ある企画上映は全踏破、終映後はDVD連続鑑賞してる知人に会った。彼の何分の1を観てるのかな・自分は好き嫌いが激しすぎるなとも思うが、当人は涼しい顔で当たり前にスクリーン・モニターに向かい続けてる。続けて何日も休みがあったら他のことへ向かえるかなとも思う。)、高名もタイミングで殆どみてない監督の二本立てだったから。勿論、もっといい作品もあったと思うが、今日の2本は才気・統制力を欠いて、(当時の表現や痼的日本風土からの)風潮に、従うというより、過剰に反応・拡げきってて、ある種見物ではあった。
本作は、当時このような名作以外の、リバイバルやTV放映も全般に少なく、いただき・パクリ、とはわからないだろうなとの判断か、『復讐は俺に任せろ』(今や若い人たちにとっては、映画史を語る上でさけては通れぬ名作だが)のそっくり再現かなと思って観てたが、とんでもない、そこに留まらない。大胆で性急なな暴力表現・カメラワーク・構図、次々高次の異物・傑物現れと一気対決は、三隅=若山の『子連れ狼』を先取ってるようにも見え、ハンデを負ってる方が無神経に突き進むと、断然優位の筈の方がハンデの事も忘れ、急に情けなく弱腰に、は『子連れ狼』どころではない。俳優のオーバーな演技やメイクも常軌を逸している。怪作として定着せず、作品はどこまでも滑ってゆく。
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本作の5年前の作、前田『駈けだし刑事』の方は対照的だ。当時の心も物も貧しい空気・空間に引っ張られ、タッチも人の表情・行動もたどたどしくキレ・主体を欠く。狂言まわしの刑事駆け出し1ヶ月の長門は別にして、殺人事件真犯人の姉も、事件(性)に距離を置く含蓄ある年輩刑事らも、更になかなか打ち切らぬ警察内の捜査会議自体が、私怨・社会的感情・優位自己権限の当然に流され切らず、自己の精神・姿勢の豊かさの欠けた引け目・負い目を感じ、むしろ貧しい自分に計り知れないものの存在の大きな可能性に怯えて、好意を超えた言わなくていい余計な証言や遂行停止再考に向かう。今は死語の損するも構わぬ、善良な人達の根っこのもとはこんなところにあったのかも知れない、と思わされた。
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