湯っ子

海と毒薬の湯っ子のネタバレレビュー・内容・結末

海と毒薬(1986年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

人体実験を平然とした顔で執刀した医師たち、それをサポートした看護婦(あえて看護師ではなく看護婦と記します)たち、野次馬見物にやってきた軍人たち、彼らは狂っていたのか?
ことの次第を恐れおののき、慌てふためきながらも傍観するしかなかった勝呂だけが正常なのか?

受け入れ難い事実に出会った時、人は心を殺すんじゃないだろうか。
痛みを、恐ろしさを感じずに済む唯一の方法なんだろうと思う。

恐ろしい人体実験の後、居た堪れず飛び出した勝呂を馬鹿にする医師たち。うすら笑いさえ浮かべて、世間話やら病院内の権力争いに関する根回しをする。
人体実験を見届けた軍人たちが、酒盛りして馬鹿騒ぎする姿。その中心で微動だにしない軍医。
それぞれ違う態度でこの狂った出来事をやり過ごそうとしているように見える。
勝呂と戸田、2人は対象的に見えるが、考えの相反する友の気持ちをお互い、誰よりも理解し合っているように見える。
しかし、戦争の狂気という黒く深く激しい海に流されているのは同じ。

女たちからは、また違う風景か見えているらしい。実験を手伝った看護婦2人の地下室の会話から見えるもの。戦争の狂気以前に、医師に盲目的に仕えなくてはならない看護婦という立場にある彼女たちには、やはり心を殺すことしか方法がない。

私には、彼らの心のありようを否定できない。
遠藤周作の原作でテーマにされている、「神なき日本人の罪意識」については、この映画でははっきりとした言及はない。
罪の意識についての見解は、観る者に委ねているような気がする。

私は、聖女として振る舞う教授夫人ヒルダを忌々しく感じた。
彼女は自身の精錬潔白を疑わず、神(というより神の教え)を額面通りにしか理解していないように見える。
恐ろしい実験のさなか、ヒルダの歌う美しい讃美歌か?歌声が聴こえるシーンには、彼女を憎む上田看護婦の気持ちがヒリヒリと伝わってきた。

戸田は勝呂が最後まで執着した「おばはん」を
「おまえにとって神みたいなもの」と言っていた。
ここに、遠藤周作のキリスト教観が表れていると思う。

原作を読み返そう。
湯っ子

湯っ子