ドラミネーター

ターミネーター2のドラミネーターのネタバレレビュー・内容・結末

ターミネーター2(1991年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

〜R5.12.29 パルシネマしんこうえん〜

おそらく20〜30回目となる鑑賞。

今一度、やっぱり名作すぎると実感した。



〈"戦士"サラ・コナー〉

 マイルズ・ダイソンという1人の善良な市民を殺すことで近い未来に失われる30億人の人命を救おうとしたサラ・コナーを批判する人はこの世にいるのだろうか。マイルズの身内はさておき、マイルズの殺害は論理的に至極正当である。にも関わらず、サラがマイルズ・ダイソンを殺せなかった(さなかった)理由は、サラは"殺戮者"ではなく"戦士"だからだろう。
 マイルズ・ダイソンを殺害することで人類を救おうとしたサラは、マイルズを庇う息子や怯える妻を目にした時、自らが「殺戮者(ターミネーター)」であることに気づき、茫然自失としたのだろう。この場面の「ダイソンとサラ」の立場は、『ターミネーター』の「サラとT-800」に重なって見える。未来の戦争を回避し、30億人の命を救うためにマイルズ・ダイソンという1人の命を奪うことはきっと「英雄」と称えられる行いであるが、サラは、ジョンは、それとは異なる道を選んだ。サラ・コナーは「戦士」ではあるが「殺戮者(ターミネーター)」ではない。


〈ジョン・コナーという人間の魅力)

 上述した「戦士」と「殺戮者」の違いは何だろうか。その曖昧な定義を論理的に突き詰めて明瞭にすることはそう難くないのかもしれないが、本作においてその必要はない。ジョンが答えを示してくれているからだ。
 "人は殺しちゃいけないんだ"
 "なぜってことないだろ。
   とにかくダメなんだ"
 "人を殺さないと誓って"
 "ママを止めないと"
作中ジョンが放つこれらのセリフ(細かい表現は正確ではないかもしれないが)は、論理性こそないが、実に人間らしいセリフである。この発言の根拠となっているのはジョン自身の"感覚"という最も曖昧でありながらも、最も確かなものである。
 論理的に、本作に馴染むように言えば「機械的」に思考すれば、マイルズ1人を殺せば30億人を救える。しかし、「善良ないち人間を殺してはいけない」その理由は、「ダメだから」だ。
 ジョンという名の純粋な少年が放つ無責任な言葉には、論理的な理由こそないが、最も人間らしく、誰もが本当は心の底で深く共感したいと思っている「想い」ではないだろうか。
 ジョン・コナーが、冷酷無比は殺戮マシーンを追い詰める人類抵抗軍のリーダーたりうる由縁は、他でもないこの純粋な"人間らしさ"だろう。


〈ジョンとサラの2つの関係性〉

 ジョンとT-800が医療刑務所からサラを助け出し(正直サラ1人でも十分脱走できたが)、T-1000の追跡を免れた直後のシーン、車内で抱擁を求めるサラに対してジョンは「母の愛」を求めその腕に納まり、「やっとママに…」といったような表情を見せるが、サラはジョンの、いや未来の人類の指導者の身体を心配するばかりであり、それに対してジョンは批判めいた口調で自身の安全を伝える。その後も、サラはジョンの「身体」「生命」の心配ばかりするシーンが目立ち、「親(母)子」の関係・愛情を求めるジョンに対して、サラは「指導者とその母」といった関わりを続ける。サラを助けたジョンの純粋な愛は、サラの「人類の指導者への執着」によって踏み躙られ、傷つけられる。きっとそれはジョンが産まれてからT2に至るまでの生活もずっとそうで、だからジョンは本作の序盤でサラへの批判を口にするのだろう。しかし、サラの写真を持っていることも、養母のことを「本当の母さんじゃない」と言い放つことも、やはりサラを本当の母親として愛し、愛されたいと思っているが故に、それが果たされない現状を生き抜くために出た感情の裏返しの態度・発言なのだろう。
 一方で、マイルズ殺害を止めにきたジョンがサラを抱擁するシーンは「親(母)子」らしい感情を纏った抱擁シーンであり、私の主観かもしれないがジョンの「やっとママに…」が満たされた瞬間でもあるように感じられる。「私を止めにきたの」と確認し、涙を流すサラと、抱擁を交わすジョン2人の姿は、「指導者とその母」ではなく、間違いなくただの「親(母)子」である。このシーンを機に、以降のサラのジョンに対する関わり方は「母親」として「息子・ジョン」を想う優しさや母性を感じさせることが増える。
 サラがジョンを護るばかりでなく、サラもまたジョンに護られていたのだろう。ジョンが存在しているということだけで、それはサラにとって何よりも尊いことなのだ。
 上記した車内での抱擁(とすら言い難い)シーンと、ダイソン家での抱擁シーンは、サラ・コナーとジョン・コナー、2人の宿命が絡んだ親子関係をよく表していると言えるだろう。


〈ジェームズ・キャメロンのすごさ〉

 T-800が溶鉱炉に下りるラストシーンはやはり泣ける。T-800は大量量産されている無機質な機械でしかないが、人間が泣く理由を、サラが差し出した手の意味を理解したあのT-800は、紛れもなくこの世に1体しかおらず、二度と、全く同じようには再現不可能なのである。

 「愛着障害」についての知識をほんの少しだが齧っている私にとって、「愛着」の観点から見ても途轍もなく面白く、納得でき、また勉強にもなる作品である。研究者も勿論偉大だが、ジェームズ・キャメロンという1人の人間が生きた「人生経験」は学術研究よりももっと原始的な「人が生きていくなかで、他者と関わるなかで、自分なりの真理を掴んでいく」という営みであり、それは最もかけがえのないものであり、時に人の心を動かすものなのだろう。そしてキャメロンはそれを「映画」という映像媒体で見事に表現する能力があるのである。