そーた

ブリキの太鼓のそーたのレビュー・感想・評価

ブリキの太鼓(1979年製作の映画)
3.9
不条理

過去に僕がすがっていたものに最近になって対峙する機会がありました。
今となっては絶対的に必要なものではないんですけど、
ただその存在がやはり僕の気持ちだったり、生き方だったりの根底にあるんだなと確信できました。

その正体はなんて事のない音楽なんですが、
ライブの最前列でヘドバンしまくってフラフラになり、
かつての自分に戻ったような気分になりました。

でも実際に戻ることはなく、
そして、ふとこの映画のことを思い出したんです。

世の不条理さを成長の停止でもって拒絶した少年オスカルの"成長"物語。

中々の怪作となっているこの作品。
その要因に挙げられるのは、
何と言っても主人公オスカルを演じたダーフィト・ベンネント。

この子。
冒頭からまったく可愛げがなくて、
不快とすら思ってしまいます。

子供のあどけなさなんて微塵も感じず、
その何かを見透かすような鋭く冷たい目付きがとにかく怖い。

あ~、どうしよう。
こんな映画と140分も付き合わなければいけないのか。
中々、映画との調子が合いません。

でも、オスカルが大人たちの醜態に嫌気を感じ、
成長停止の決意を胸に抱いたとき、
不意に感情移入のスイッチに手がかかり、
太鼓を取り上げられそうになった彼が奇声でガラスを割った瞬間にそのスイッチがカチリと入ってしまいました。

そう、オスカルに自分を重ねてしまえれば、
この映画は何とも心地が良い。

大人の世界の歪さや世の不条理さに僕もかつては反抗していて、
それらと決別するために音楽という境界を自分の回りに張り巡らし、
また周囲の人から奇異がられるような言動でもって自分を防御していた時期がありました。

こんな記憶と共にこの映画を見るということは、
その当時の僕の目線を再現する事でもありました。

一見するとプラトニックなエロティシズムやグロテスクに具現化された不条理さも、
幼い視点というフィルターを通して見れば、
ゾクゾクする魅惑に満ちたオブジェと化してしまう。

そんな、子供と大人の視点の違いは、
不条理に対する距離感の違いと言い換えることができそうです。

もしも、この映画で少なからずの不条理さを描いて見せているのであれば、
劇中ではそれと向き合う人間の距離感をも描いてみせているように思えます。

不条理について考え抜いたカフカが、
「シーシュポスの神話」のなかで、
自殺、妄信を不条理の解決策とするよりも、
むしろそれを享受すべきだと説きました。

オスカルの母が、そしてその夫に愛人が、
時代の波に翻弄され不条理とどう対峙したか。
それを、オスカルの視点で捉えてみれば、
彼らの失態をなじる文句としてどうしてもカフカを引用したくなる。

そういえば、オスカルの祖母が娘を産むに至った過程がなおのこと不条理で、
でも祖母がそれを享受しているのならば、
祖母がはく4枚のスカートの中にオスカルが入り込むという行為は何やら象徴的です。

スカートの中が世界から遮断された場所なのだとしたら、それはオスカルにとっての逃げ場所だったのかもしれません。

であるならば、
この映画のラストはむしろ世界に面と向かっていこうとする彼の大きな成長と見ることができ、
その成長は不条理を受容する度量によって後押しされているように感じます。

そして、その場面がそっくりそのまま、
僕が大人になる過程のダイジェストになっているようにも感じてしまったというわけなんです。

この映画を結末まで見たときに、
自分がかつて感じていた世界との齟齬を、
僕が自分なりに解消して生きている事に気付きました。

知らず知らずの内に世界の不条理さと折り合いをつけていた僕。
そして、そんな僕がかつてすがっていたものの助けを借りずに生きているという事実。

オスカルが叩く太鼓の軽快なリズムが、
かつての僕の記憶と共鳴はしたけれど、
それでも、後退りはしないと言い切れるくらい粘っこい生への執着を育て上げてきた僕は、
大人になったというよりも、 
むしろ覚悟を決めたんだといった方が良い。

ライブの最前列で頭を振りまくってこんなことに気付けたのなら、
十分過ぎるくらいの元が取れた。

何だか得した気分。
そーた

そーた