凛太郎は元柚彦

ノー・マンズ・ランドの凛太郎は元柚彦のレビュー・感想・評価

ノー・マンズ・ランド(2001年製作の映画)
4.0
ボスニア紛争といえば真っ先に思い浮かぶ言葉がある。〝民族浄化〟だ。

この言葉を初めて目にしたのは、高木徹著の「ドキュメント 戦争広告代理店」を読んだときだった。アメリカの大手PR会社が国民の感情をコントロールし、戦争しやすくするために〝作った〟言葉だが、衝撃的だったのを覚えてる。
1992年のボスニア・ヘルツェゴビナ建国の裏側には、セルビアとボスニアの両国の権力者たちが嘘をついてしまったことによって、二つの民族が何十年にも渡り憎み合って殺し合い、それが未だに続いてるという身も凍っちゃうような黒歴史がある。
そして、この歴史にはあまりにもフェイクが多すぎるためボスニア側もセルビア側も、客観的な立ち位置にあるはずのアメリカ側ですら本当は誰が悪いのか真相を知る者が誰ひとりいないという奇妙な実態である。
本作では、この真実の脆弱さというテーマを徹底的にギャグにしていて、思わず吹き出してしまうシーンがたくさんある。
劇中ずっとセルビア人とボスニア人が「お前らが戦争を始めたんだ。極悪非道なやり方で我々の民族を虐殺してるのはお前らだ」と言い張ってるわけだ。そこへ国連軍がやってきて、事態はどんどんややこしくなってくる。

さて、ここからは完全に個人的な考察になるけど、この映画に出てくる銃は〝権力〟そのものを暗示してるんだと思う。
二人の兵士が過去の話から共通点を見つけることができたように、セルビア人もボスニア人も皆血筋を辿ると同じ民族であることがわかる。言葉も同じ。住まいも同じ。本当なら家族のように分かちあい理解することができるはずなのだ。
だが、いっとき互いを理解することができた彼らだが、銃を手にしたことによってまた対立してしまう。銃を制する者は無条件で相手を制することができる。銃があることによって、絶対的な力の優劣が生まれてしまうのだ。
この二人をボスニア国とセルビア国に置き換えると、銃は〝権力〟を暗示しているということになる。
それらを踏まえてからこの映画を見ると、最後に彼らを滅ぼすのが何なのか、この結末が意味する世界とは何なのか、ゾッとするメッセージを読み解くことができる。
三人のキャラクターで巧みに〝内戦の縮図〟を描きつつ強烈なメッセージを残す戦争コメディモノの隠れた傑作だった。