フェリーニは愛する道化師たちについて「分離した人の影だ。グロテスクで、ゆがんで、ばかげたじぶんの姿だ」とその自著で語っている。白い道化師が理性なら、オーギュスト(黒い道化師)の狂気は人間の本能である。彼らはこの作品の幻想的なフィナーレの果てに渾然一体となって、どこかへ消えてしまう。
ただ、ほんとうに道化師が影であるならば、それは完全に消滅したのではなく、太陽が頭上にやってきたときのように、同化してしまったのだと考えることもできるだろう。つまり、蒙を啓いた人間はじぶんのばかげた本能を見失ってしまう、それはとても悲しいことであると、そうフェリーニは嘆いていたのではないか。
この作品の鑑賞は、彼がじぶんのサーカスへの思い出、道化師に対する"内側”からの恐怖とあこがれを再現しながら、まさにそのとき新しい人生をつくりあげていき、同時に心地よい夢を見ているような、不思議な体験だった。
フェリーニのフィルモグラフィそのものに対しても言えることだが、別々なのか一体なのか、今なのか過去なのか、虚構か現実か、嘘か真実か、戯けているのか誠実なのか、実体か、それとも影なのか、ほとんどわからない。ただその夢はあきらかに、さまざまな点において、すべてのあいまいさの上に後世の何かを予見していたりもする。たとえば、道化師たちが一見ばかげた衣装を競い合う魅力的なワンシーン、これはまるでパリコレである。
だがそんなことはどうでもいいことなのである。
「老子はこう言わなかっただろうか?ある考えを生み出したら、それを笑いとばせ」(フェデリコ・フェリーニ)