YouTuberが台頭してきた裏にも同じようなドラマがあったのかね、あったんだろうね。時代はいくらでも回帰してきたしこれからもそれは続くんだろうが、たぶん良くも悪くも人間の血の滾りはどんどん失われてい>>続きを読む
ズバ抜けた表現力。ドストエフスキーの悪霊を読んだとき、リザヴェータの破滅の恋路を綴った日本語のテキストに、この狂奮的なカメラワークと似た感覚を覚えたものだった。幸福の絶頂から絶望まで、渦のように巻いて>>続きを読む
これも時間の映画であったと思う。ブレッソンのような、パースペクティブともいえるある種の平面的な時間に対し、ここでは、前後を削ぎ落とされ、垂直に落下していく無数の愛の欠片の堆積による立体的な時間が組み立>>続きを読む
この三人の登場人物はたぶんまじめに読書をしたことがないんだろう。だから孤独と向き合う術を知らぬまま中年を迎えてしまった。それまでは金も地位もあり、家庭生活もそれなりに豊かだった。人生は男性的な自惚れで>>続きを読む
ニワトリ泥棒を追い込み漁みたいに囲い込んでいくメルヘンおばさん強すぎて笑った
旧ソ連渾身のプロパガンダ。まさに国家の威信をかけたような歴史的超大作だった。CG技術を駆使した大作とは重みがまるで違う。
ウェルズはその空間的深さの中で、完全に陰を支配していた。そこで螺旋のように渦巻いているのは、古から男たちが大切に作り上げ守ろうとしてきたある神秘的な観念である。「貞淑さ」だ。それがまた狡猾な誰かの抱え>>続きを読む
再投稿。ロメールベスト5に入る。最後のアンジャッシュコントの多幸感も、巧妙な映画術があってこそだ。あり得ない「偶然」の連続も受け入れられる。なぜならブランシュだけが、演劇化を逃れた、ありのままの人間の>>続きを読む
また見た。再投稿。変わらず、おれのベスト映画である。インスタのほうにダラダラと書いてみた。
今の日本人にも必要と言えるであろう精神、つまり労働者側の強固な団結を煽動しようとする目論見が、かなりの説得力をもった映像の現実性をとおしてアツく語りかけてくる。
ウントーニは失敗する。周りと連帯しな>>続きを読む
得体の知れないゆえに近寄りがたい恍惚が漂っているように感じてしまった。
「映画のフレームは人生のようなものじゃないか。人生においても差し出される可能性は限定されている。映画とは四角形の人生のようなものだ。人生だって同じように限界がある。でも映画の方がより正直だと思う。なぜ>>続きを読む
ヒロインが心理的に拒絶しているように見えるのはハエ男よりも、ストーカー気質の元恋人のほうなんだな。それに、ハエ男がヒロインに堕胎を許さず、存在論的にそのお腹の子ごと強引な融合を試みようとするなんともい>>続きを読む
再見。今みてもおもしろい。娘役、ドリュー・バリモアに似てたんだなぁと思っていたらほんとうにドリュー・バリモアだった
小津の形式の効果は、作品そのもののなかで完結するものではなく、フィルモグラフィを通じ、その形式からの解放の瞬間に向かって持続するものであると、個人的には解釈している。しかしこの作品の特異な点は、ひとつ>>続きを読む
クレールの音の暗示がもっともうまくいっている最高傑作だと思う。ドラマは旋律にほかならない。そのドラマとは、みずみずしいカップルが雨の降る軒下で接吻をした瞬間から、また雨の降る軒下で接吻をする瞬間までの>>続きを読む
「ファンのみんな」がわりとほんとうにツイッターのみんなっぽい
病みつきになるアホさだ。しかしあれだな、金についてはやはりブレッソンのそれだな。
怪物的な天才が、映画という原罪を経て、彼の最初の観念的な世界に向かって苦しみながら突き進んでいるというまさに映画史のような現象が起こっていた。
それによくもまあこんなにもトリュフォーにそっくりな俳優>>続きを読む
小津作品からひったくられた「サセレシア」が流れるところはこのゴダールっぽさの核心部分だと思う。
これがギャング映画のはしりらしい。階段の音楽的効果がかなり効いている。スペクタクルとしても見応えがあった。しかし一方では、ジェームズギャグニーやEGロビンソンを知っているからこそ物足りない気持ちも多分>>続きを読む