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コールガールのmasatのネタバレレビュー・内容・結末

コールガール(1971年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

結構コワい映画だ。

単なる失踪事件の調査にあたるペンシルベニアの田舎者探偵。失踪者が接触していた高級娼婦に遭う為にニューヨークへ。そこから浮かび上がってくる真実は・・・
と言う筋立てだが、このパクラ監督の作品は、その代表作『大統領の陰謀』(76)含め、その事件の顛末なんてクライマックスに差し掛かる頃からどうでも良くなってくる。途中、サスペンスをなかなか盛り上げるのに、何故か後半で肩透かしを喰らう。しかし、それ以上に異常な事態と人間の実相がスリリングに前へ前へと押し出されてくる。

思えばトップシーンからそうだった。
失踪した男の妻へ報告する刑事との会話、「奥さん、旦那さんは異常な性的行為を行っていた様です。こんなことはよくある事で、誰しも知らない顔を持っているんですよ。」と、淡々と恐ろしい事を告げていた。

やがて大都会ニューヨークへやって来た田舎の鼠が観るモノは、想像を絶する都市の陰に渦巻く人々の実像であり、知りたくなかった世界であり、そこで苦しむ一人の娼婦の姿。女優志望のその女は、生活の為に身体を売っていた、と思っていた。思っていたが!?の展開が凄い。

心から彼女へ同情しながら、魅かれ行く田舎の鼠が体感するのは、今までに味わったことのないセックスと共に、その女を愛しいと思う感情。彼女も、彼の抱擁する優しさをバネに人間に戻ろうとする、かに見えた。事態はすでに遅かった。彼女は、もうその世界から離れることができない身体になってしまっていた、それを田舎の鼠は体感したのだった。
そのな彼女の、そして彼女が体現するこのニューヨークの実相、その“翳り”が、この映画最大の衝撃なのである。
もう元に戻せない、どうにも出来ない、取り戻せないと言う田舎の鼠の敗北、そう、この敗北感こそ、この映画の感情であり、新たな鼓動が聞こえ始めたアメリカン・ニューシネマ、1971年現在の“拡がりつつある姿”なのである。

事件の顛末なんてどうでも良くなったクライマックス、犯人がどんなディテールかなんて忘れてしまったが、エピローグだけは、脳裏に刻まれている。
ニューヨークを出て行く彼女と、それを見送る田舎探偵。「私は田舎では生きられない(と彼との生活を振った)。もうこの街には戻らないわ。いえ、解らない。来週には戻っているかも」と笑った。誰も何も無くなったガランとした部屋が映され続ける空虚感。それは田舎鼠と観客の心を映し出していた。

恐らく、戻ってくる、のだ。
そしてまた、浸かる、のだ。
映画中盤で、ヨットのエンジンに巻き付いて発見されたヤク中の女性の煤けた金髪の濡れた質感、あの溺死体のカットを思い出す。

この翳りの実相における主役は、カメラである。
コルレオーネ・ファミリーのトップライトのテカテカ光る額から、チビハゲユダヤに映画を教えたゴードン・ウィリスの最高の瞬間。ただでさえ暗いニューヨークの闇、闇、闇。そこで地味に光る恐ろしいロイ・シャイダーの顔。何が人間らしい道なのか混乱するジェーン・フォンダの瞳。何の障壁もなく今日まで生きて来た田舎鼠ドナルド・サザーランドの(ぼってりとした瞳が今回は)あえて逆を行った純真な瞳。
恐ろしい翳りを(観客が)目撃する様に、撮り上げて、ひたすら暗い。これぞ映画芸術。
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