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ナッシュビルのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

ナッシュビル(1975年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

 アメリカ南部テネシー州の都市、ナッシュビルを舞台に繰り広げられる群像劇。点でバラバラで、繋がりそうもない彼らは、それでもこのアメリカに生きている点で繋がっていた。最初は何を言わんとしてるか判然としないから、集中力が切れそうになった(自分は3回に分けて観た)。しかし、最後まで是非観てほしい。この映画はまた、音楽が音楽の元の意味を取り戻していく映画でもある、それが希望か絶望かはわからない。

 1975、6年の作品群が物語る、アメリカの鬱屈。「カッコーの巣の上で」、「狼たちの午後」、「タクシードライバー」、「ネットワーク」、そして今作品。政治と社会、特にベトナム戦争で国家への信用が失われ始めた傾向がこれらの作品には現れている。wikiのアメリカン・ニューシネマ代表作には、アルトマンとルメットがかなり名を占めている(他に名を連ねるキューブリックやコッポラは、アメリカン・ニューシネマとは違う気がするが)。ちなみにアルトマン作品は今作品が初見だが、俄然他も見たくなった。

 各々のアメリカン・ニューシネマとの類似点。今作に次いで「ネットワーク」でもネッド・ビーティが出演している。「タクシードライバー」「ネットワーク」に共通してテロの脅威が描かれている。また政治と民衆の縮図として人物たちは描かれている点が多い。

 舞台となる南部は、政治性は薄いが、確実にそれ故に政治の格好の獲物にされやすい性格を持つ。その、徐々に迫る政治的な鬱屈感の、じりじりと躙り寄る感じがリアル。個人個人を切り取って描いているから、余計に政治が関係してるように一見見えない。しかし、彼らが群れとなり集まったりすると、途端に政治性が牙を剥く(やはり集団になると人は変わる)。とは言え、真綿で首を絞めるようにゆっくりとだが。南部に政治が介入していき、しかもポピュリストが持ち上げられていく構図は、どうみてもトランプ大統領の誕生に警鐘を鳴らしていたとしか思えない。

 群像劇。最初はあまりにも乱雑なクロスカット、且つかなりの人数を把握するのに苦労する。その乱雑さは見せ下手かと思わされるが、実は用意周到に作られたうちの序章に過ぎないのである。実は、よく見ると妙にカメラがフォローしたりして、後に重要になる人物をしれっと紹介していたりする。そして、群衆の中にそれら人物を見出すのも不思議と簡単なのだ。非常に巧みな画面内の視線誘導があって、我々は見逃すことは殆ど無い(覚え切れないことは少しあったが)。また、人は最初全て表層から入るわけで、いきなり込み入った話になるわけでもない。逆を言えば、表層的でしかなかった彼らは、後半になるに連れて複雑性を増していくのである。人間が人に接触してから関係を深める手順通りに映画は進行していき、ゆっくりと我々は登場人物たちに寄り添うことになる。また、冒頭のクロスカットの荒さは、そもそも物事は簡単には結びつかないということの証明でもある。

 唯一場面を超えて繋がったように錯覚したのは教会のシーンだった。どの場面の音楽もぶつ切りだったのに、教会の祈りの歌は、ゴスペルからバーバラに受け継がれるかのようだった。冒頭を思い出してほしい。レコーディング中のヘヴン達と、リネア率いるゴスペル集団の交じりあわなさを。この何事にも耐えるという精神論に偏った「It Don’t Worry Me」とゴスペルの祈りの混じり合わなさ。だがこの2つがラストでは奇跡をみせる。

 バーバラ。彼女の良心ぶり、それは皆の憧れであり心の拠り所である。しかし、彼女の冒頭の不意な気絶は、誰もが、特にアメリカ人ならケネディ暗殺が過ったに違いない。あの妙な観衆のざわつきと淡々としたレポーターの語りは、あのパレードを思い起こさせるに十分だ。だから、彼女には不穏さが付き纏う。そして、その良心を利用するのが政治であり、バーバラはあっと言う間にハル・フィリップ・ウォーカーの宣伝塔となってしまう。バーバラの歌を、心穏やかに聞ける瞬間は殆ど無い。歌を歌として聞けない。

 バーバラの、歌を歌として聞けない状態は、今作品に出てくる歌全般にも言える。今作品の歌は、そのものとしてもはや楽しめず、政治的意図やら、思想やら、歌う背景がチラついてノれない。また曲は突然シーンと共にぶつ切りにされるので、よりノらせてくれない。また歌は意味を変容していく。例えば、トムが歌う愛人への歌がある。しかし、この歌を自分に対するものだと3人の女性は思い込んでいる。トムは、ある一人に視線を向け、その歌の行く宛てが判明するが、それまではいわば聞き手によって歌が奪い合われている状態であった。それはトムが仕掛けたゲーム的な歌の利用なのだ。そしてバーバラの良心からでる純真な歌も、政治に奪われるため、暗殺の危機が終始チラついている。逆にスーリーンは、歌そのままに演じ歌うが、彼女は酷く音痴であり、それは観衆には伝わらない。だから、バーバラとスーリーンは立場は違うが、同じ悲劇を抱えている、歌が歌として機能しない悲劇を(関係ないが、最近行った横浜開港祭で、市長や県知事などの”政治的な”挨拶の後に森麻季のコンサートが始まったのがフラッシュバックした)。他にもウィニフレッドという”女性”による歌が、”男達”によるカーレースにかき消されるシーンもある。

 上記の例は女性の悲劇もある。言うまでもなく権力は男側にあって、今作品もマネジメントやら何やら画策する連中は皆男だった。また、スーリーンが歌よりもストリップを求められるシーンは非常に胸痛む。歌う気持ちが純真なだけに余計に。そして搾取構造が露わになる。トムは歌をゲームとして利用しており、女を引っ掛けるためならなんでもよいのだ。歌に対する心構えが男と女でかなり違っているのもわかるだろう。女が純粋な歌そのものを歌うが、男は歌をゲーム的にしか利用していない。例外も幾つかはあるが(トミー・ブラウンの歌など)、殆どこの法則に今作は法っている。最後に歌われた歌はだから、女性が歌うのが必然であったのだ。ヘブンが歌ってはならないのだ。

 選挙カーだけの音声、姿を現さない候補者ハル・フィリップ・ウォーカー。まるで「激突!」のあのドライバーのように。近年では「桐島、部活やめるってよ」がわかりやすい例だろう。真の黒幕は姿を現さないのだ、という点では「悪い奴ほどよく眠る」にも近い。なんだか選挙カーはまるで自然に溶け込んでいて、それでいて誰が聞くわけでもないその音声の虚無はすごい。

 耳の聞こえない息子に対する父と母の対応の違い。妻の訃報を聞いた直後に他者に幸せを語られる瞬間。不意な不幸や胸が痛む瞬間をカメラは逃さない。終盤は、誰もが目を向けたくなかった不幸やら現実を前に折れていく。ポール・トーマス・アンダーソンがアルトマンから多大なる影響を受けたことはわかっているが、この不幸や現実に直面する瞬間の表情を逃さないカット達はまんまPTAに受け継がれているように思える。

 ラストの畳み掛けは圧巻。群像劇は、良くも悪くも最終的に集まりがち。酷いとただ集まるだけで、どんな監督にでも収められる。しかし、今作品は、その薄っすらと幕を覆っていたアメリカ国旗がたなびく時、皆その下で耐えており、悲嘆しているという点で集まるわけだ。そんな彼らの唯一救いになるはずのバーバラが、もはや傀儡となり後ろに掲げられた大統領候補者ハル・フィリップ・ウォーカーの名を背負う時、集った彼らの希望さえも権力にいつの間にか回収されていたことがわかる。その絶望の中、奴が引き金を引く。バーバラは倒れ、ヘヴンも片手を撃たれる。しかし、どこか、撃った犯人を責めることはできない。ベトナム戦争の歌を歌ったバーバラを撃つのを思いとどまった彼は、それを打ち砕かれている。いつかこうなると、見えない権力に耐えられず誰かが銃を撃つと誰もが思っていただろう。そんな倒れたバーバラを横目に、ヘヴンは「歌え、歌え」と連呼する。ここナッシュビルはヘヴンという名の甘い夢に覆われていた、そしてそれが今醒めようとする時、その幻想を絶やさないように彼は歌を要求する。彼にとって歌は、現実に対する目くらましだったのだ。また、この時彼が撃たれた方の手でマイクを持つ必死さが滑稽である。また、自称”記者”であるオパールが事件を聞き逃す滑稽さもある。すると、ウィニフレッドが、何にもかき消さない状態で劇中初めて歌を歌う。それは、冒頭の精神論的なヘヴンの曲、「It Don’t Worry Me」だった。しかし、この悲嘆の空気、失われた希望を前に、なんてパワフルな歌なのだろうか。それは、かつてヘヴンが歌った意味とは違う、我々の悲痛な叫びを帯びていた。いや、先述したことに倣うなら、やっと歌を奪還できたのだ。ヘヴンからウィニフレッド率いるゴスペルたちと民衆に歌が戻ったのだ。しかも、冒頭では対立したカントリーとゴスペルが調和したのだ。「自由じゃないと言われても、私は気にしない」。字面ではど根性精神だが、聴く歌声からはそれ以上の崇高さを感じた。ここまでひしひしと政治に蝕まれた彼ら民衆が、最後に自らの人生を犯させまいと抵抗しているのだ。ひさびさに味わったこの高揚感、それは政治腐敗が当たり前になった今日に余計響く。そんな今作品は、横切る警備員が不意にインサートされた後、”南部のアテネ”ことパルテノン神殿の原寸大記念碑を背景に(ハリボテの権威という見方もできる)、民衆を映したカメラは空へとチルトアップして幕を閉じる。井上陽水の「結詞」という歌の歌詞が頭に浮かぶ。「今日を駆け巡るも、立ち止まるも、青き、青き空の、下の出来事」。彼らはあちこち行き駆け巡るも、青き空は変わらないし変えれない。そんな無常観に包まれ、エンドロールが終わっても続く「It Don’t Worry Me」に、私たちは何か希望を見出せたのだろうか。

 「ネットワーク」に引き続きじゃがたらの「もうがまんできない」の楽曲もここに引用する。「ネットワーク」での「俺はとんでもなく怒っている。もうこれ以上耐えられない!」という台詞が「もうがまんできない」のタイトルと重なると言った。しかし「ナッシュビル」にも近い楽曲なのかもしれない。そう、楽 「もうがまんできない」の曲中では、"もうがまんできない"というフレーズが登場しないのだ。その代わり「心の持ちようさ」という歌詞が連呼される。それは今作品での「自由じゃないと言われても、私は気にしない」に近いのではないだろうか。「もうがまんできない」は、ある限界点であるシンギュラリティを目前とした歌で、「It Don’t Worry Me」はその限界点を超えた先の歌と捉えられる。その差はあれど、民が耐えかねて怒りをどうしていくかという共通項が見出せるのではないだろうか。とにかく、この時代のアメリカ映画には、共通する怒りが見えている。「シビアな映画はもうゴメンさ」なんて歌う江戸アケミもきっとこれら作品を見ていたのだろうと想像する。

 あぁ、何かと保守やリベラルで対立させられ、実はネトウヨやパヨクと呼ばれる人々は身近にいて、こんなこと言うとどんな夢見がちな言葉だと思われるかもしれないが、みんな青い空の下であがく苦しみを知った同じ存在じゃないか。よく見ると、カメラが切り抜くのは子供たちの映像ばかりで、希望的だ。「ナッシュビル」の「It Don’t Worry Me」のエンディングは、その苦しみと希望と絶望が入り混じり、涙なしに聞けない。悲劇とハッピーエンドは、ここに共存するのだ。いつか、同じということに、短絡ではなく真実として受け止められる日が来たらいいな。
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