シゲーニョ

アメリカン・ジゴロのシゲーニョのレビュー・感想・評価

アメリカン・ジゴロ(1980年製作の映画)
4.0
たぶん、映画好きな方ならば、なぜか忘れられない作品というものがあるだろう。
ストーリーのあらましは何となく覚えているだけなのに、登場人物の台詞や所作、とあるシーンやワンカットの画、音楽や衣装など、本篇中の一部分、そのピースが、強烈なイメージとして残っている映画のことである。

「アメリカン・ジゴロ(80年)」は、若い肉体と洗練されたマナーを武器に、上流階級の女性たちを相手にする男娼ジュリアン(リチャード・ギア)が、殺人事件の容疑者にされたことをきっかけに、真実の愛に目覚めるという、ジゴロの光と影を描いたサスペンスドラマだ。

しかし本作には、「スリルの醸成」といった観る側をハラハラさせるような展開はほとんど無いし、謎解きの要素も無い。追い込まれていく主人公の姿が心に響いてくるような場面が無くはないが、シンパシーを感じるほどでもない。
派手な演出もないから、大抵の方は淡々と事実だけを見せられているように感じてしまうだろう。

もしかしたら、見どころは「女優並みにシーン毎にお召替えするリチャード・ギアのアルマーニ姿」だったり、「女性を口説く手管」くらいしか無いと感じている方がほとんどかもしれない…(笑)。

初鑑賞時の自分の気分もまさにそうだった。

オバさまたちとダンスをしたり、「HACHI!」と変なイントネーションで犬を愛でたり、清涼飲料のCMで「男はつらいよ」の寅さん姿になったりした、小泉元首相みたいなロマンスグレーのリチャード・ギアしか知らない人には、80年代から90年代にかけて彼がハリウッド随一の色男、米ピープル誌で「最もセクシーな男」に選ばれるほどの「セックスアイコン」だった事など信じられないと思う。

本作撮影時、リチャード・ギアは30歳。大人の色香が出始めた頃だろう。
自分は大学生になったばかりで、ゼミのオンナ友達に強引に誘われ、名画座で初鑑賞することになる。
(併映は、うる覚えで恐縮だが「愛と青春の旅だち(82年)」で、リチャード・ギア特集だったと記憶する…)

表向きは富豪の中年女性を顧客とする通訳かショーファー(お抱え運転手)のため、ジュリアン本人曰く「5〜6か国語の会話力」があり、また骨董を初め、そこそこ造詣が深く、何か刺激を求めているご婦人方の女心をくすぐる、洒落た口説き文句も身に付けている。
そして、一流のジゴロでいる為には夜のテクニックだけではなく、日々の肉体造りや洋服のセンスなど自分への投資も怠らない。

なので、スウェーデン語のラーニングテープを聴きながら、逆さ吊りで腹筋するシーンは今でこそ爆笑モノだが、劇場での初見時は、イイ男になって高額報酬を得るには、相当の訓練と努力が必要なんだなぁ〜と感心させられた次第である。

また、ジュリアンがご婦人との夜のお仕事の準備のため、自宅で所有するアルマーニをスタイリングするシーン。

コカインを歯茎に擦り付けながらクローゼットを開け、ずらりと並ぶアルマーニのジャケットを数着ベッドに並べ、次に引き出しの中のきちんと整理されたネクタイとシャツからいくつかピックアップするなど、「自分大好き感」満載な感じでコーディネートしていくわけだが、この時、上半身裸のまま、軽やかにステップを踏み、口ずさんでいる歌がスモーキー・ロビンソン&ミラクルズの「The Love I Saw in You Was Just a Mirage/まぼろしの恋(67年)」。

愛した女性に騙された男の歌で、彼女の自分への愛は「蜃気楼」のようなものだったと悔やむ内容だが、この場面で、ジュリアンはその中の一節、一節を選んで口ずさむ。

「君は美しかった/僕への愛を誓う言葉が君の顔に書いてあるように見えた」…「本物のように思えた僕への愛は幻想」…「残っているのは口紅の後だけ/キスだって感じているフリだけ」…「君は僕の世界をボロボロにしたんだ」

勝手な解釈だが、客と自分との関係は「お金と体だけで、愛など決して存在しないのだから、情にほだされるな」と仕事上の格言を自分に言い聞かせているように思えたし、これが毎度の習慣なのか分からないが(笑)、有閑マダムを相手にする高級ジゴロの哲学・知らない世界をのぞきこむようで、興味深く見入ってしまった。

他にもオークション会場で、客のダンナの会社のオーナー夫人(ルシールという名前なのでたぶん仏系)に出くわし、アドリブでドイツ人のオカマの真似して茶化すシーンなど爆笑どころもあるにはあるが、初見時での鑑賞は総じて、エレガントなマナーと超一流のファッションで鍛え抜かれた肉体を飾り、80年代の享楽的で軽薄な社会を生き写しにしたようなジゴロを演じたリチャード・ギアと、ブロンディのユーロディスコティックな主題歌「Call Me」の印象が残るだけ…。


しかし、何度か再鑑賞を重ねる度に、初見時には気付かなかったグッとくるシーンが見えてくる。
たぶん、自分も歳を重ねていくうちに、モノの見方や考え方に変化や蓄積されるものがあったのだろう。

まず、ジュリアンに扮したリチャード・ギアの演技、女性の心の機微に通じた立ち振る舞いである。
相手をいたわるように優しく声をかけ、人の話もよく聞き、否定せずに先ず共感することから始める。
そして最後は少年のような笑顔。
このような懐が深く、相手を安心させるような素振りなど、自分には到底真似出来ないし、イケメンぶりも併せると、張り合っているわけでは決してないが(笑)、もう勝ち目がないのである…。

ジュリアンを一流のジゴロに育て上げたエージェントのアン(ニーナ・ヴァン・パラント)とビーチに降りていく場面。
階下にいるジュリアンがそっと手を差し伸べ、アンを抱き上げ、砂浜に降ろすほんの一瞬のワンカットなのだが、女性に対する気遣いとエスコートまで、すべてが完璧と感じてしまうシーンだ。

また、運命の女性、ミシェル(ローラ・ハットン)とのバーやチャイニーズレストランでのデート中、ミシェルの顔をチラッと見て、視線を外すのを何度か繰り返したり、少し間を置いて煙草に火を付けるフリをして今度はジーッと見たりするのだが、いやぁ〜女心をくすぐる神業だと、観ていてつくづく感服させられてしまった。
(このテクニックはリチャード・ギア持ち前のものなのか判らないが、「プリティ・ウーマン(90年)」でも、ジュリア・ロバーツ相手に再チャレンジしている…)

蛇足ながら、アンに扮したニーナ・ヴァン・パラントの日焼けした肌が眩しく、両腕を袖まくりしたメンズシャツ姿がとても魅力的に見えた(撮影当時なんと47歳!!)。デンマーク人でポップデュオの歌手として欧州中で人気を博し、ロバート・アルトマンの「ロング・グッドバイ(73年)」で女優に転向。本作ではそこで演じたミステリアスな人妻役をまんま引き摺るかのような、どこかアンニュイな雰囲気で、再見時、心惹かれてしまった…。

そして、初見時では見過ごしていた、本作「アメリカン・ジゴロ」全篇に漂うヨーロッパ的な雰囲気の醸成と、ノワール的世界の再発見。

まず米国版ポスターや、CD・DVDのジャケットにもなった本作のアイコンとも言える、ジュリアンの自室の壁にかかる「ブラインドカーテンの影」。
壁の上に作り出された美しい光と影のフォルムは、撮影監督のジョン・ベイリーのインタビューによれば、ヴォーグやグラツィアといったイタリアのファッション雑誌の感覚を取り入れたこととなっているが、ベルナルド・ベルトルッチの「暗殺の森(70年)」劇中内、主人公のマルチェロがフィアンセのジュリアの自宅を訪れる場面での、くっきりと白と黒のストライプを形作る「ブラインドからこぼれる日差し」が、間違いなくイメージの源泉だろう。

次に、ミシェルとジュリアンの情事シーン。
ミシェルの胸元を隠すジュリアンの両手からのティルトアップや、ミシェルの腕・足首・背中のクローズアップが短いカッティングで重ねられていく様は、ジャン=リュック・ゴダールの「恋人のいる時間(64年)」が元ネタだ。

圧巻なのが、面会室でのジュリアンとミシェルの会話。
「It’s Taken Me So Long to Come to You(君だったんだな、僕が一生探していたものは…)」と言い終え、ガラス越しにミシェルの手により掛かるジュリアン。

本作のクライマックスといえるこの場面は、ロベール・ブレッソンの「スリ(59年)」の留置所の金網越しに互いの愛を確かめあう主人公の台詞「君に会うためにどんなに廻り道をしてきたことか」と符合するし、窮地に追い込まれた主人公を救うのが、彼を理解し愛する一人の女性である点も含め、ビックリするほど酷似している。
80年代のハリウッド映画にあまり見られなかった、心を静かに揺さぶる、深い「余韻」を残す名シーンだと思う。

余談ながら、「ジュリアン・ケイ」という名前が気になった。
劇中、本人言うところ、イタリア生まれのフランス育ちらしく、欧州を放浪し、美徳も悪徳も積んだ「異邦人」的な雰囲気を名前から感じとれる。
またまた勝手な妄想だが、ジュリアンという名は、フランスの作家スタンダールの「赤と黒(1830年)」の主人公ジュリアン・ソレルを想起させる。
「赤と黒」のジュリアンはフランス東部の貧しい家で生まれながら、持ち前の才気と美貌を生かして立身出世を切に望み、富裕層や政治家、軍人、僧侶にとりいり、軍人と聖職者を目指す青年野心家で、恋愛でも女性二人を天秤にかけ、結果、悲劇を迎えることになってしまう。

まぁ、名前の件はともかく、本作にフランスやイタリア映画の「LOOK(=画の雰囲気)」が多々観られるのは、監督ポール・シュレイダーが映画業界に身を置く以前の20代前半の頃、ベルトルッチやブレッソンといった欧州の映像作家に傾倒していたことが要因だろう。

また、ロバート・アルドリッチの「キッスで殺せ(55年)」での、主人公の探偵マイク・ハマーが尾行されるドリー移動から尾行者を待ち伏せしてブン捕まえる一連のショットや、レイモンド・チャンドラーのマーロウものを40年代を舞台に、ノスタルジーを込めて描いた「さらば愛しき女よ(75年)」のオレンジや青、緑色の照明を被写体にあてたコントラストの強いライティングの引用など、古き良きフィルム・ノワールを意識した本作の画面設計も、再鑑賞の際に気付き、今では大変思い入れのあるシーンとなっている。
(注 : 但し後者は、本作「アメリカン・ジゴロ」と「さらば愛しき女よ」両作品のプロデュースを務めたジェリー・ブラッカイマーの趣味・嗜好かもしれない…)


最後に…

「間違っている!」「こじつけだ!」と批判・反論されることを覚悟して敢えて書かせて頂くのだが、本作「アメリカン・ジゴロ」と、ポール・シュレイダーが脚本を担当した「タクシードライバー(76年)」は、とても似ていると思う。

シュレイダーのファンの方からすれば、ポルノ業界という怪しげな世界に身を落とした娘を救出することに取り憑かれた、父親の狂気の姿を描いた「ハードコアの夜(79年)」の方がよっぽど「タクシードライバー」に似ていると思われるだろう。

もちろん、その意見に異論を挟む余地はない。

しかし「タクシードライバー」、監督デビュー作となる、一介の自動車工が殺し屋に狙われる妄想に駆られた「ブルーカラー/怒りのはみだし労働者ども(78年)」、「ハードコアの夜」、「アメリカン・ジゴロ」の4本は、書き上げた順番は不明だが、ほぼ同時期、シュレイダーが20代に発想し、執筆されたものである。

それら全ては、キリスト教カルヴァン派のコミューンで生まれ育ち、娯楽を禁じられた厳しい環境で培ったシュレイダー自身の鬱屈した「強迫観念」がモチーフとなっている。
そして映画業界に入っても私生活は満たされず、自ら味わった孤独や疎外感をバネにシュレイダーが一気呵成に書き上げたのが、この4作なのだ。

以後、「アメリカン・ジゴロ」と「タクシードライバー」に焦点を絞るが、
リチャード・ギア演じるジュリアンはハンサム且つ頭がスマートでリッチ、ロバート・デ・ニーロ演じるトラヴィスと全く違うように見える。
しかし、人生に迷走している点では同じ穴のムジナ、コインの裏表だ。
また二人とも、自分なりに善行を働いていると思い込んでおり、ジュリアンの場合は金持ちのオバさま方に愛を売ること。トラヴィスの場合は腐った街の浄化である。

そして最も類似している点は、自意識過剰な男がその性格が災いして孤立し、社会の底辺に堕ちていくところを、思いもよらず、ある天使と出会い、救済されるストーリーだ。

「タクシードライバー」の天使は、ジョディ・フォスター演じる娼婦アイリス。
本作「アメリカン・ジゴロ」は、ローラ・ハットン演じる上院議員夫人のミシェルである。

もちろん、主題だけでなく両作品の劇中内には、似ている箇所が幾つかある。

まず、全篇を主人公の視点だけで統一しているところだ。
「アメリカン・ジゴロ」でジュリアンの見た映像でないのは、サンディ刑事が殺人事件の遺族と凶器について話すシーンと、ミシェルがジュリアンの弁護士に相談するシーン。
「タクシードライバー」では、アイリスとヒモのスポーツが抱き合ったままスローダンスを踊るシーンと、トラヴィスが一目惚れしたベッツイが選挙事務所でボーイフレンドと会話するシーンにトラヴィスの姿は無い。
これらのシーンで共通するのは、主人公の意に反した他者の思惑が露わになるところで、それによって主人公の孤立状態をより強く浮き立たせたている。

次に、鏡に向かって話しかけるシーン。
トラヴィスのあの有名な25口径のピストル片手に「オレに言ってんのか?」に対して、ジュリアンはライトグレーのボーダータイをしめながらスウェーデン語の練習…(笑)。
「森へ行きたいのですか?いや、入江の方がいいですよ。では今から行きましょう」

他にも、夜の繁華街を車で徘徊するシーンなど幾つか類似したカットが散見される。

「アメリカン・ジゴロ」は1980年2月8日に全米で公開され、公開一週目は興行成績1位。
2月の月間ランキングも1位に輝くスマッシュヒットなった。
しかしこの結果は諸手を挙げて喜べるものではない。
何故ならアメリカ映画界の慣例として、大手の映画会社は2月に超大作やAクラスの作品を公開することを自粛するからだ。理由は簡単、この時期はアカデミー賞発表の1カ月前で、ここで高評価を得ても投票には間に合わないし、来年のアカデミー賞では旬を逸した、古い感じに思われてしまうからだ。

結局、本作は1980年、全米年間興行ランキングでは22位。
たった70万ドルの製作費の「13日の金曜日」(15位)、クイーンの主題歌だけが有名な底抜けSF超大作「フラッシュ・ゴードン」(18位)にも敗れ、プロデューサーのジェリー・ブラッカイマー、パラマウントの当時副社長だったドン・シンプソンといった製作サイドの予想を大きく下回る結果となる…。

多分、本作に登場する金持ちや偉そうな背広組はなんの痛手もなく、犯罪ギリギリながら夢を追う上昇志向の強い若者だけが敗れ去る結末に、共感する観客が少なかったのではと思われる…。

しかし、監督のポール・シュレイダーは懲りずに、強迫観念と閉鎖された環境からの解放をテーマに、その2年後リメイクながら「キャット・ピープル(82年)」を発表。以降、長く輝きが失われた時期もあったが、2018年にはセルフオマージュとも思える「魂のゆくえ」のメガホンを取る。内容は聖職者として穏やかに過ごしてきたイーサン・ホーク演じる牧師が、とあることがきっかけに、「タクシードライバー」的な破滅へと突き進んでいくストーリー。
御年75歳、その過激な作家性は半世紀経っても、何ら変わりがないのだ。

そして、ジェリー・ブラッカイマーとドン・シンプソンも転んでもタダでは起きず、「アメリカン・ジゴロ」の企画を換骨奪胎して、今度は、国の政治と経済の迷走によって廃れてしまった街からやってきた男が、鼻持ちならないお金持ちを皮肉るアクションコメデイを製作する。

そう、あの「ビバリーヒルズ・コップ(84年)」である…。